ホームページ・メッセージ070121            小 石  泉

新約聖書は正しいか


「新約聖書は低俗な文学作品で、他に類を見ない規模で大量殺人と憎悪に対して責任がある。“偏屈で、憎しみに満ち、反ユダヤ的で危険な”新約聖書は処分されなければならないのである・・・・・・それも、直ちに。」
「新約聖書はヒトラー・ナチスのホロコーストと何世紀にもわたるユダヤ人迫害の発想の源泉だった。この憎むべきキリスト教の本を、急いで! 消滅させよ、そうすれば反ユダヤ主義は永遠に消え去るだろう。もちろん、もし新約聖書がこの世界の舞台から退場するなら、イエスがキリストまたは主として来ることも永遠に無くなるだろう。」
「新約聖書がユダヤ人にはイエスの十字架について罪があるというので、第二次世界大戦中の600万人のホロコーストに責任がある。」エイブラハム・フォックスマン(ユダヤ人)
「新約聖書は醜く、憎しみに満ち、真実性のないものであり、反ユダヤ主義に満ち、ユダヤ人を憎悪する者たちによって書かれ、編集された。しかしながら、もしクリスチャンが罪滅ぼしをして、反ユダヤ主義を捨て、新約聖書の多くの節を改訂し、削除するなら、ユダヤ人とクリスチャンの間には明るい未来がある。」リリアン・フルードマン(同)
「新約聖書からユダヤ人を怒らせる全ての節を除去するだけでなく、タルムードの宗教、ユダヤ教がキリスト教会で“正式な宗教”として受け入れられなければならない」同
「旧約聖書のダニエル書で、反キリストはユダヤ人であると指摘しているKJVの聖書は“誤訳”である。栄光あるユダヤ人から反キリストが出るなどということはありえない。」アーノルド・フルクテンバウム(メサニック・ジュウの指導者) 
「新約聖書の有効性について多分に疑わしい。なぜなら新契約(訳注:福音のこと)を称揚するあまりに、ユダヤ人の優越性を示すユダヤ神殿の重要性を減少させるからである。使徒パウロの書簡は、全く見当違いで明らかに不潔である。ユダヤの旧契約と神殿の優越性は保持されなければならない。」モンテ・ユダ(同) 
「ユダヤ人は福音化されてはならない。KJVと全ての現代の新約聖書は、 “異教の原語”(それらは古代ギリシャ語写本から翻訳されている)に基づいているからだ。ただヘブル語だけが清いのだ。」アルノ・フォロゼス(ユダヤ教を信じる異邦人)
 これらの新約聖書への攻撃は何百年も前に語られたことではなく、ごく最近現れている現象です。それもアメリカの政治的な権力を背景に強力な動きが始まっています。しかし、これらは驚くことではありません。1000年も前からユダヤ教の経典タルムードにはこう書かれているからです。
「ユダヤ人はキリスト教の書物、特に新約聖書を滅ぼさなければならない。」安息日116a
 新約聖書を改訂し、多くの章節を削除し、あるいはいっそのこと、新約聖書そのものを抹殺せよ、とユダヤ人の強力なロビーは訴えています。なんと私たちの見解と相違していることでしょう。これは正に主イエスを十字架に掛けた人々と同じ発想です。

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。マタイ5:43〜48

 これらの主の言葉のどこが「低俗な文学作品で、偏屈で、憎しみに満ち、反ユダヤ的で危険な」のでしょうか。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。ヨハネ1:1〜5

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。9〜13

 この御言葉は今でもユダヤ人を怒らせるのです。それはちょうどステパノに対する怒りと同じです。全く変わっていないばかりか再び燃え上がっています。

人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。使徒行伝7:54〜60

 新約聖書の貴い清い御言葉が抹殺されようとしています。特にキリストの神性を表す言葉は、エホバの証人の新世界訳のようにあいまいで否定される表現になるでしょう。すでに新しい訳はかなりな部分が前のものと違ってきています。
 私たちは「簡単なことではないか! ただちょっと謝罪して、新約聖書のある部分を消せば・・・全てはユダヤ人に許されるのだから。」と新約聖書の改訂を許すべきでしょうか。私は今後、なし崩しに、このようになっていくだろうと思います。
 これらの主張の背景にはナチスドイツのユダヤ人600万人のホロコーストがあります。ところが、当時ドイツには600万人もユダヤ人はいませんでした。この数字は第二次世界大戦前のヨーロッパ全体のユダヤ人の数から戦後残ったユダヤ人の数を引いたものです。ニューヨークタイムスでさえ、ほぼ100万人以下であり、その中にはユダヤ人以外の人々も含まれると発表しています。

この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。黙示録22:18〜19

 聖書を削除したり改訂したり、まして抹殺するような企てがあってはなりません。歴史上、常に攻撃にさらされてきた聖書は、これからどんな攻撃にも敗北することは無いでしょう。聖書への攻撃は言わば全面戦争です。ゲリラ戦のように分かりにくいことはありません。この点であいまいなら、それはクリスチャンと呼べません。

よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。マタイ5:18

 主のこの言葉は新約聖書にも当てはまることです。

また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。Uペテロ3:15〜16

 ペテロさんはこう書くことによって、当時書かれていたパウロの手紙を“ほかの聖書”と聖書そのものであることを証言しています。当時、聖書と言われていたのは旧約聖書だったことを覚えてください。
 さあ、いよいよ、戦いは始まりました。

あなたがたのすきを、つるぎに、あなたがたのかまを、やりに打ちかえよ。弱い者に「わたしは勇士である」と言わせよ。ヨエル3:10

わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。ヨシュア1:9





*直接、ユダヤ教とのかかわりはありませんが、日本でも新共同訳は創世記の1:11〜12の重要なことば「種類にしたがって」ということばを「それぞれの種を持つ」とあいまいな表現に変えています。気をつけましょう。

神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。

神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。