メッセージ070114                 小 石  泉
       父


 聖書の中でどうしても理解できない箇所がいくつかあります。その中でもヨブ記の冒頭の箇所は私にとって最も不可解な箇所でした。

 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。
 ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。
 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
ヨブ1:1〜22

 ヨブ記はヨブという神を畏れる敬虔な人が、神の前でさらに完全なものとなるために、神とサタンが問答して、ヨブを苦しめ悩ますという話です。神とサタンが問答するというのも不可解なのですが、私にとって一番不可解なのはヨブを正しくするために、財産を失うのはともかく、僕ばかりか7人の息子3人の娘までが死ぬということです。これはどう考えても不条理です。どうして父を正しくするために子供たちが死ななければならないのでしょうか。これはヨブ記の本来の目的とは違う話なのですが、納得いきません。
 まず考えたのは、これは実際にあった話ではなく、比喩として作られた物語なのだということでした。だからそういう不条理も、物語の設定として作られたのだと。しかし、登場人物の出身地、あるいは民族の名前が出てくるので、架空の話ではないだろうということと、聖書にはフィクションはないということから、物語ではなく実際にあったことだと考えられます。
 結局、私が得た結論は“父とはそういうものなのだ”ということでした。父のためには子が犠牲になっても良いと神様は考えておられるのです。

 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。出エジプト記20:4〜6

 この御言葉は他にも数箇所ありますが、神を愛する人にはその子孫の千代まで恵みを与え、憎むものにはその子孫の三〜四代にまで呪いがあると言っています。ここは恵みは千代、のろいは三〜四代という比較から、神の愛の深さを示しているのですが、実際にイスラエルの王の歴史を見ると、父が不従順な場合、その子に影響があることがあります。
 私は自分が父だから言うのではなく、私自身にも父があり、子であったのですが、今は父の権威が失墜している時代です。父を馬鹿にするドラマやコメディーが沢山あります。日本の場合、父を敬わないことはもう当然のようになりました。その結果、子供たちの精神的な拠り所が失われ若い人々の心は流浪しています。

 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」創世記22:1〜2

 信仰の父と呼ばれたアブラハムの場合でも、神はその子を殺して焼きつくす「全焼のいけにえ」(口語訳では燔祭)にせよと命じておられます。実際にはそれは実行されなかったのですが、今風に言うなら、父のためになんで子が殺されるのかということになるのでしょう。しかし、神の秩序では、父と子という順序はこのように定められているのです。それがあいまいになったために、今日の精神的な荒廃があります。
 元々、子は父から出たものであり、父が無ければ子はいないのですから当然ということなのでしょう。英語に子供を表すoffspringという言葉がありますが、いかにもそのことを表しています。
  神を別の言葉で表現せよというと、欧米人はまず父という言葉を思い出すそうです。実際、聖書でも神様の代名詞は父(Father)です。「父なる神」とあります。父を敬うということは神を敬うことに直結するのです。日本の場合、神を霊とか御柱とか表すことはあっても、父と現すことは自然ではありません。また、日本、アジア、アフリカ、南米、古いヨーロッパなどの地域には女神信仰がありましたが、ユダヤ・キリスト教の地域で女性の神という概念は無かったのです。最近、アメリカで「父なる神」という言葉は女性蔑視につながるから、「父であり母である神」という表現にした聖書が出たとか聞きましたが、これなどはサタン的な発想と言わなければなりません。新改訳聖書では父という言葉は、旧新約合わせて1064回出てきますが、母という言葉は306回です。
 ちょっと脱線しますが、テレビなどで三蔵法師を女性が演じることに仏教会から抗議が出ないのはなぜでしょうか。私は不思議でなりません。比較にはなりませんが、もしキリストを女性が演じたら、世界中から抗議の声が沸き起こるでしょうに。まあ、どうでもいいのでしょうね。また、あるテレビの討論会で、子供が同性愛者になったら父はどうすべきかという質問に、アフリカの人が「殺す」と答えて満場の顰蹙を買いましたが、私は、彼は正しいと思いました。
 父なる神は、その子、イエスを十字架にお付けになりました。その最後に、イエス様はこう言われました。

イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。ルカ23:46

 これが子の態度の模範です。イサクも従順に父アブラハムに従いました。私たちはもう一度、父の権威というものを考え直さなければなりません。