ホームページ・メッセージ070107 小 石 泉
許すこと、許さないこと
私は最近、許さないということがどれほど恐ろしいことか、痛感する出来事に出会いました。細かいことは話せませんが、あるクリスチャンの兄弟(クリスチャンは男性を兄弟、女性を姉妹と呼びます)が信仰を失い、奥さんに対して言葉や態度で暴力を振るいました。奥さんは数年間我慢していましたが、たまりかねて実家に帰ったのです。彼は非常に反省して、心から悔い改め、信仰に戻り、謝罪しようとしました。それこそ土下座してでも謝罪すると伝えたのですが、実家の家族は全く許しませんでした。彼は途方にくれました、どうすれば良いのだろう。「どうすれば良いのですか、許されるなら何でもします」。
しかし、親族は「自分で考えなさい」と言うだけで何の方策も示さず、ただ攻撃するだけでした。そしてインターネット上で非難攻撃を続けています。彼は忍耐の限りを尽して謝罪を受け入れてくれるように頼んだのですが駄目でした。絶対に許さないというのです。
ついに彼は許されることをあきらめました。私は許さないということは恐ろしいものだと思いました。そして、その時、立場は逆転するものだと思いました。許さないということは、憎悪を継続して持ち続けるということで、サタン的だとさえ思いました。
しかし、神様はゆるす方です。
しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。詩篇130:4
ゆるすから恐れられるというのは、むしろ逆に感じます、人はゆるされない時、恐れるのです。しかし、ここに言う「恐れる」とは、むしろ、「畏れる」と書くべきところです。「敬う」という意味が加わったおそれです。罪はゆるされなければなりません。そうでないなら絶望しかないのです。もし神様が永遠に罪を許さないというなら私たちはどうしたら良いのでしょうか。
旧約聖書のレビ記は退屈な箇所で、同じような言葉が延々と続きます。しかし、何度も何度も「ゆるされる」という言葉が出てきます。レビ記はゆるしの書物なのです。
すなわち祭司は罪祭の雄牛にしたように、この雄牛にも、しなければならない。こうして、祭司が彼らのためにあがないをするならば、彼らはゆるされるであろう。レビ4:20(口語訳)
興味深いことは、罪のための贖いの犠牲には違いがあるのです。油注がれた祭司の場合は雄の子牛、イスラエルの国民全体のためにも雄の子牛が殺され、つかさ、すなわち政治的な指導者の場合は雄やぎ、一般人の場合は雌やぎ、そして全てに「こうして彼の罪はゆるされる」とあります。何と幸いなことでしょう、罪はゆるされるのです!
祈を聞かれる方よ、すべての肉なる者は罪のゆえにあなたに来る。われらのとががわれらに打ち勝つとき、あなたはこれをゆるされる。詩篇65:2
「われらのとががわれらに打ち勝つとき」。人の罪には二種類あるのです。それは、それに“負けてしまう場合”の罪と“あえて意思を持って”罪を犯す場合です。前者はゆるされますが、後者はゆるされません。世界には嬉々として恐ろしい犯罪を犯す人々がいるのです。サタニストはそうです。
さて、罪がゆるされる最も典型的な例はあの放蕩息子の話です。
また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。ルカ15:11〜24
もう説明が要らないほど有名な箇所ですが、この話をゆるしという面から見るとき、父のゆるしの美しさと正しさに感銘を受けます。もし、この時に、父が「ゆるさない」と言ったらどうでしょうか。弟は父がゆるしてくれると信じたから戻ってきました。彼はただ帰って来たのではなく、出て行ったときには役に立たない息子でしたが、今は貴重な学びをした有能な息子になっていました。人は失敗を通して学ぶものです。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」のは帰ってきた時だけではなく、父の元にいた時からそうだったのです。
誤解を与えないで話すことは難しいのですが、罪を犯さないでそのような人格を持っているに越したことはありません。そういう人もいるでしょう。しかし、失敗によって学んだ人は、前のその人より有益になるものです。心からの悔い改めをした弟を、父親はただ単に許しただけではありません。「最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。」と言って喜びました。前に勝る祝福を与えたのです。
人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。創世記2:25〜3:1
「裸だったが、恥ずかしいとは思わなかった。」人間は、初めはイノセントでしたヘブル語ではアーロームと書かれています。無邪気という意味です。それに比べてへび、すなわちサタンは狡猾、アールームでした。元々、人間がまだ善悪の木の実を採って食べる前、エデンの園にいたときにはこのように、全く罪のないイノセントの状態でした。それを神様はあえて罪を犯すことを許しました。それは「罪がない」というのは、決して堅固な品性ではなく、危うい品性に過ぎないからです。人が罪を犯して、悔い改めたときに初めて堅固な品性が与えられるのです。だからと言って罪を犯すことを薦めているのではないのですが・・・・。
イノセントという言葉は美しい言葉です。無邪気、罪が無い、汚れが無い。しかし、イノセントは完成した善ではありません。神様は人間が無邪気であるのを楽しまれたことでしょう。しかし、それは成長の途上に過ぎないこともご存知だったでしょう。私たちでも幼子の無邪気な姿に感動することがしばしばあります。しかし、それは未完成の美です。
神に近づく最善の方法は悔い改めることです。悔い改めを拒絶するのは悪魔の性格です。神様の性格はゆるしなのです。そのためにわざわざ御子イエスが完全な道を作ってくださったのです。