ホームページ・メッセージ061126            小 石  泉

魚の口の中の銀貨


彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。マタイ17:24〜27

 聖書は年齢に沿って意味が深まってくる書物です。改めてここを読んで、とても面白く感じました。ここはとても人間くさい話なのに、ものすごい真理を表しているのですね。
 まず、ペテロのところに町の役人のような人々が来て宮の納入金を集めようとしました。ユダヤ人にとって、宮は国家の中心ですから、いわば税金のように集めるのが当然なのでしょう。前にスイスに立ち寄ったとき、教会の前でガイドさんが、教会のために国家が十分の一税を集めて分配するという話を聞いてびっくりしたことがあります。これはヨーロッパでは当然のことなのでしょうか、それともスイスだけなのでしょうか。
 ペテロさんは「納めておられます」と一応は答えたのですが、実は納めていなかったのです。ペテロさんの心中は穏やかではなかったでしょう。どうしようか、何とイエスさまに報告しようか。ところが彼が一行が泊まっていた家に入るとイエス様のほうから聞いてきたのです。「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。」 ここでペテロさんは、まず、イエス様がすでに知っていたことを知りました。次に、宮の納入金は自分は払う必要は無いと言われたのにも驚いたことでしょう。「自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。「この世の王たちは税金を自分の子供からは取らない。それなら私は払わなくて良いのだね。」私たちからすれば献金を税金という感覚はちょっと違和感があるのですが、ユダヤ人のとって税金以上に大切な献金だったのです。
 面白いのはここからです。それなら払わなくて良いのだが、彼らをつまずかせないため払うことにしましょう。イエス様は真理を厳格に適用するのではなく、相手の受け取る能力に応じて弾力的に適用しています。この辺を多くの教会は学ぶ必要がありそうです。そして「海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。と言われました。
 まず、イエス様の一行は銀貨一枚も無かったのでしょうか。無かったのでしょうね。もしあったら会計係のユダにもらって払いなさいと言うはずですから。余計なものは全く持っていなかったのです。マザー・テレサみたいですね。いやマザー・テレサがイエス様に似ていたのでしょう。
 次に、イエス様は銀貨を飲み込んでいる魚を知っていて、それがペテロの釣り針に掛かるようにされたのです。ガリラヤ湖の魚には金属を口に入れる習慣のある魚がいます。私たちもイスラエルに行ってガリラヤ湖でこの魚を食べました。淡白なおいしい魚です。もっとも日本以外では魚はみんな唐揚げにしてしまうのですが。
 これは本当に愉快な小さな物語なのですが、良く考えてみるとすごいことですね。イエス様はガリラヤ湖のどの魚がどんな銀貨を口にくわえているか知っていたのです。そしてその魚にペテロの釣り針に掛かるように命じられたのです。イエス様はガリラヤ湖だけではなく世界中の魚も、獣も、鳥も、全てをご存知です。どこに金鉱脈があるか、ダイヤモンド鉱山があるか、何でも知っています。

「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、だれが戸をもって、これを閉じこめたか。あの時、わたしは雲をもって衣とし、黒雲をもってむつきとし、これがために境を定め、関および戸を設けて言った、『ここまで来てもよい、越えてはならぬ、おまえの高波はここにとどまるのだ』と。あなたは生れた日からこのかた朝に命じ、夜明けにその所を知らせ、これに地の縁をとらえさせ、悪人をその上から振り落させたことがあるか。地は印せられた土のように変り、衣のようにいろどられる。悪人はその光を奪われ、その高くあげた腕は折られる。あなたは海の源に行ったことがあるか。淵の底を歩いたことがあるか。死の門はあなたのために開かれたか。あなたは暗黒の門を見たことがあるか。あなたは地の広さを見きわめたか。もしこれをことごとく知っているならば言え。光のある所に至る道はいずれか。暗やみのある所はどこか。あなたはこれをその境に導くことができるか。その家路を知っているか。」ヨブ記38:2〜:20

 ヨブ記の中で神様はこうして、ご自分が創られた世界を紹介しています。この後で、雪のこと、雨のこと、風のこと、氷のこと、星のこと、雲のこと、動物のことと続きます。神様は全知全能であり。イエス様も全知全能です。

彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。イザヤ65:24

 イエス様はあなたの心の奥にある悩みも、苦しみも、悲しみも、傷も、罪も、全部知っています。そしてそれらをあなたが叫び求めるなら、聞いて、答えてくださいます。

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。マタイ7:7

 こちらに求める気持ちが全く無いなら答えられません。神様に答えられたい人にだけ答えられるのです。そうでないと余計なことですから答えられません。呼ばない先に答えるというのは、その人が呼ぶことが判っているからです。
 それなら競馬の当たり券とか、年末ジャンボ宝くじの当たり番号もご存知なのでしょうか・・・・・! 残念ながら、そういう邪悪な動機には答えられません。神様はギャンブルとか、スポーツの勝ち負けとか、好奇心の対象には答えられないのです。神様はアラジンの魔法のランプの精ではないのです。
 イエス様は答えられる祈りの模範を示されました。

キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。ヘブル5:7

 全知全能者が人としてこの世にこられたとき、このような制約の中にご自身を置かれて、私たちの模範を示されたのです。

御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。ローマ8:26

 これが敬虔ということの模範です。魚の口の中から銀貨を取り出されるお方は、私たちの心の中から銀のような美しい品性を取り出されるのです。

銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。箴言17:3