ホームページ・メッセージ061119 小 石 泉
教育の崩壊
日本の教育が混乱し始めています。子供たちが自殺という手段でしか自己を表現できず、校長先生までが自殺するとあっては、もはや崩壊と呼ぶべきでしょう。誰にも、どうしていいのか分からなくなっています。戦後、日本は徹底的に民主化と無神論教育がなされました。その結果、権威というものが無くなってしまいました。権威の失われた社会は、こんなにも惨憺たる状態になるのですね。
主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。箴言1:7
教育の基本は神を畏れ敬うことです。昔の日本には正しい神認識は無かったにせよ、人間以上のものを畏れ敬うという感覚はあったのです。昔の有名な俳句に、ある神社の前で“何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙あふるる”と読んだものがあります。何が祭られているか分からないけれど、何となく涙がこぼれるほどありがたいという意味です。信じる対象は間違っていても、このような謙虚さが、かろうじて日本の精神的な背骨となっていました。今でも人々は神社に参拝し、初詣には多くの人が行きますが、習慣としてであって、信仰心は無いのです。今の人々は欲望の追及と自己主張だけです。自分の欲望のために子供が邪魔になるから殺す母親なんてこれまでの日本では考えられませんでした。精神的な崩壊が社会の至る所で始まっています。
戦後、昭和天皇は占領軍司令官のマッカーサーに対して、日本をキリスト教国にしてくれと頼み、マッカーサーがアメリカから多くの宣教師を派遣させたのは有名な話です。しかし、昭和天皇はその後、そのことをひどく恥じたようです。晩年、アメリカを訪れ大歓迎されたとき、マッカーサーの故郷の側を通りながら墓に詣でる予定をしなかったために、遺族や町の人から大きな非難を受け、あわてて特使を遣わして花輪を届けさせるという失態を演じたことからもそれがうかがえます。また、皇太子妃美智子さまが聖書を子供さんたちに教えたことを激怒し美智子さまを呼んで叱りつけそのために美智子さまが失語症になられるほど悩んだこともありました。
それもそのはずで天皇家は神社神道とは密接不可分な立場にあり、言わば大祭司的な役柄を持っているからです。戦後、文部省がキリスト教をあらゆる面で排除してきたのもその辺の事情からではないでしょうか。私は今の日本人のキリスト教嫌いは自然発生的なものではなく、造られたものではないかと思います。世界でこれほどキリスト教を毛嫌いし、むしろ敵対的な意識を持っているのはイスラエルとイスラム教国だけです。共に独自の宗教から来ているのですから日本も神道の強い影響があるのでしょう。また、そこに天皇制の影響もあるのではないかと私は思います。
こうして真の神を排除し、人々から畏敬の念を奪った結果がこの惨状です。安倍内閣で教育改革が叫ばれていますが無駄でしょう。戦前への回帰を図ることしか方法は無いのでしょうが、私は、もうここまで来たら立ち直ることは出来ないと思います。教育の現場にいる人々は大変だと思います。
さらに、戦後、アメリカからやってきた子育てや教育に関する指導書や思想はほとんどが無神論者や不信仰者によるものでした。その内容は子供の健全な発達よりもむしろ子供をあまやかせ、どうしようもない怪獣に育てるものだったのです。これは案外知られていないのですが事実です。そんなことってあるだろうかと思われるかもしれませんが、世界の裏側を知ると驚くようなことが分かってきます。クリスチャンは世界が、実はサタンの熱心な活動の場であることを知らな過ぎます。私はこう言う事をかなり知っているのですが、誰も信じてくれないし、聞きたがらないので自分の中で封印するしかない場合が多くあります。サタンは眠っているのではありません、人々から神に関する知識を奪うことに熱心に精力的に取り組んでいます。そのために、彼らが教育という分野を利用しようとしていることは当然だということは分かるでしょう。
“いじめ”は「収容所症候群」なのです。人間は収容所などの閉鎖的な環境に入れられ、生活の供給に限定的な制約を加えられると、自分より少しでも弱いものをいじめることによって鬱憤を晴らすようになります、これを英語ではconcentrate camp syndrome (収容所症候群)と言います。学校という限定された環境から、そういう心理状態になるのでしょう。これも決してなくならないでしょう。
これは日本だけの傾向かと思っていましたが、意外なことに、韓国でもかなり起こっているようです。日本よりいじめによる自殺が多くいるという報告もあります。ただし韓国の場合は日本とは少し異なる要素があるように思います。韓国の場合は日本よりも強烈な進学競争があります。儒教の影響から父系社会であり、一旦進路を外れると二度と復帰できない制約があるといいます。(「スカートの風」参照)キリスト教は盛んでも閉鎖性は日本以上なのかもしれません。私が見る限り、韓国のキリスト教は、非常に民族的な色彩の濃いもので、古い伝統と精神的な制約が強い信仰です。
日本で、最近の幼稚園では、学芸会の劇の主役は全員、運動会の競争は一等賞はなし、なのだと聞きます。これはもう社会全体がビョーキですね。給食費は払わない、登校拒否、先生がちょっとでも触ったら“暴力”では教師はどうしたら良いのですか。私など特攻隊崩れの教師から口の中を切るようなすごいビンタを受けました。歯を折った友達もいました。昔はそんなことは当たり前だと思われていました。もちろん問題のある教師もいるでしょうが、ほとんどの先生は一生懸命、教育の現場で勤めているのです。先生の登校拒否、精神的な病がかなりな部分になるといいます。
知恵は、ちまたに呼ばわり、市場にその声をあげ、城壁の頂で叫び、町の門の入口で語る。「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで思慮のないことを好むのか。
あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
わたしの戒めに心をとめよ、見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。
わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。
彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。
思慮のない者の不従順はおのれを殺し、愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす。しかし、わたしに聞き従う者は安らかに住まい、災に会う恐れもなく、安全である」。箴言1:20〜33
この箇所を良く読んでみてください。何だか今の日本を特定しているように思いませんか。セレブだグルメだと欲望だけにうつつを抜かして、神を知る知識を軽んじているのではありませんか。「あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかった」「彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじた」。
その結果は「恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む」のです。「その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない」。残念ながら、日本人が心から神を求めるのはこの通りになる時でしょう。私はこうならない状態での日本の“リバイバル”など信じません。
わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る。
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。3:1〜8
あなただけはこう在ってください。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ」これが全ての元です。教育もこの御言葉に従う他に救う道は無いのです。