ホームページ・メッセージ061112 小 石 泉
黙示録の解釈
私は最近、三種類の非常に奇妙な黙示録の解釈を知りました。それを簡単に説明します。
第一はN牧師の説で、黙示録は全て終わっているというものでした。詳しいことは聞き漏らしましたが、黙示録は未来を予言したものではなく、全てあの1世紀に終わったというのです。これはほとんど無意味な説だと思いました。論ずる価値もないと思います。
第二はさるメサニックジュー(イエスをメシヤ、キリストと信じたユダヤ人のこと)の学者のテープでした。この人の聖書解釈は非常に興味深く、教えられることが多いのですが、彼の黙示録の解説には問題があります。彼は「ユダヤ人がすべて救われなければイエスは再臨しない」という解釈を強調するのです。それは次の御言葉によるようです。
わたしは言っておく、「主の御名によってきたる者に、祝福あれ」とお前たちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう。マタイ23:39
この箇所からキリストの再臨はユダヤ人が救われてこのように言うまで無いと断定するのですが、そう断定することは出来ないと思います。次の御言葉を読んでください。
わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。その日には、エルサレムの嘆きは、メギドの平野にあったハダデ・リンモンのための嘆きのように大きい。国じゅう、氏族おのおの別れて嘆く。すなわちダビデの家の氏族は別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆く。ナタンの家の氏族は別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆く。レビの家の氏族は別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆く。シメイの氏族は別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆く。その他の氏族も皆別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆くのである。その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる。ゼカリヤ12:10〜13:1
この前後の関係から、ここは再臨の後の状態と思われるのです。イスラエル・ユダヤ人は栄光のうちに現れたキリストを見て、初めて自分たちが神の使わされたメシヤを拒否してしまったのだと気づいて嘆くと思われます。
確かにパウロ先生は、イスラエル人は全て救われると言っています。
兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。神の賜物と召しとは、変えられることがない。ローマ11:25〜29
この箇所は、「異邦人が全部救われるに至る時までのことであって」とあるように異邦人の救いが前提です。そしてパウロにせよ、ヨハネにせよ、血筋よる救いではなく、信仰による救いを、常に優先していることを思うときに、最近のキリスト教会に蔓延している、ユダヤ人優先論は奇妙なことだと思うのです。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。ヨハネ1:11〜13
さらにこの人は黙示録8章の「苦よもぎ」を堕落天使だと断言します。
第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。黙示録8:10〜11
この星を堕落天使というのは天使というものを知らないからだと思います。黙示録は、天使は天使、悪霊は悪霊とはっきり書いています。堕落天使を星と表現した聖句はありません。天使は一人の固体ですから、この星が川や水源の三分の一に落ちたというのは説明になりません。
私は1986年に教会の聖書研究会でこの「苦よもぎ」は放射能のことだろうと説明しました。それから一週間も経たない間に、あのチェルノブイリの事故が起きました。そしてその翌日、今は無き小泉兄弟が「先生、あのチェルノブイリというのは『苦よもぎ』という意味だそうですよ」と教えてくれたときの衝撃を忘れることが出来ません。神様が「苦よもぎ」が放射能という意味だと教えてくれたような気がしました。彼はこのことを知っているはずなのに、なお、堕落天使だというのが理解できません。
次に、私の兄が最近出した本の中で、「黙示録の144000人は日本人である」という説を披露したのには、頭を抱えてしまいました。言葉にもなりませんでした。
この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリ部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。黙示録7:1〜8
この「この「日の出る方」からを日本とするのですが、彼が主張している日本人はユダヤ人の子孫であるという説、日本はイスラエル12部族の内バビロン捕囚からいなくなった北朝イスラエルの10部族という説とは矛盾します。ユダとベニヤミンが入っているのですから」どうも南朝ユダの2部族も日本にいるというらしいのですが、これについての説明は私は知りません。日本人のDNAは25%が中国人、25%が朝鮮人、あとの50%が雑多な民族であるということが判っています。ですから、日本人がユダヤ人の子孫だというならそれより何倍も中国人であり朝鮮人の子孫のはずです。
この144000人はエホバの証人の中心的な信仰となっているのですが、何だかそれと似た程度の解釈だと思います。私の考えではここにある部族名は無意味なものではないと思います。例えば誰がユダで誰がルベンかということはどう決めるのでしょうか。エホバの証人もアメリカ人の144000人の選ばれた人々だと言うのですが――この宗派が144000人を越えたときに、彼らは困ってしまい、“この選民が祝福されるのを見守る祝福”などという奇妙な論理を組み立てました――同じように日本人の誰がユダで誰がルベンだと証明出来るのでしょうか。それともこれらの部族名は意味が無いというのでしょうか。それは聖書を冒涜するものです。聖書はそんないい加減な言葉を書いていません。ユダはユダ、ルベンはルベンです。もしこの部族名が象徴であるならわざわざ一つ一つ一万二千人と書く必要は無いでしょう。また、ここに言われている数字はそのままの数字であるのか象徴であるのかも判りません。さらにこの144000人が日本人であるという説を次の聖句から無理やり作り出します。
またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。14:2〜5
ここの「女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。」は新改訳聖書では「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。」とあり、はっきり“童貞”と書かれています。これを兄は女は西欧のキリスト教会であるとします。だからキリスト教が浸透しない日本人なのだと。これは聖書解釈としてはあまりにも行き過ぎです。ここも文字通りに解釈すべきです。また前出のユダヤ人教師はこれがユダヤ人から選ばれた人々で、世界的な伝道を展開するといいますが、ユダヤ人であることはわかりますが(私は今のイスラエルに12部族がいるか、または集まるだろうと考えています)伝道するとは書かれていません。「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」とだけあるのです。私はこの144000人は、最も美しい人間の代表であり、キリストの親衛隊で、清らかな聖歌隊のような人々だと思います。天使で言えばケルビムかセラピムのような人間の集団です。
さて、このように黙示録の解釈は誤りやすいし、難しい問題なのです。私は6冊の本を書きましたが黙示録は出来るだけ避けました。聖書の預言というものは実際に実現するまでわからないことが多いものです。はっきりわかる場合だけそういうべきで、それ以外は「であるかもしれない」ぐらいに止めるべきです。私はそうして来ました。
マニュアル車のギアにニュートラルというのがあります。前進でもなく後退でもない。黙示録の解釈に当たってはこのニュートラルが必要です。ああだこうだと断定することは危険です。今は本当に間もなく黙示録が実現する時代です。私たちは神様がなさるこの壮大なドラマをかたづを飲んで見守ることにしましょう。
今週は中途半端でネガテイブなメッセージになりましたが、我慢できなくてお話しました。ご寛容ください。