ホームページ・メッセージ061105            小 石  泉

携帯電話と聖書


 先日、コーヒーショップでコーヒーを飲んでいたら、若い女性が入ってきて、コーヒーを注文し、席に着くとうやうやしく携帯電話を取り出してテーブルの上におきました。掛けるのかと思っていると、そうではなくただ置いただけでした。最近の若い人にとって携帯電話は必需品のようです。極端に言うと、まるで自分の体の一部のようにさえ感じているのではないでしょうか。脳細胞の拡張した部分か心臓の一部のようでさえあります。
 数ヶ月前に、「あの世にもって行きたいもの」というアンケートに、携帯電話と答える人がかなりいるということを読んだことがありますが、これには本当にびっくりしました。もちろんあの世と交信できるわけはないのですが、それほど無くてはならないということなのでしょう。携帯電話はもう単なる電話ではなく、あらゆる機能を備えた究極の備品となりつつあります。財布、ID(本人の確認)カード、コンピューター、時には電車の切符、写真、音楽、テレビ、ナビゲーター、辞書、目覚まし時計、メモ、カレンダー、小遣い帳、アドレス帳、などなどとてつもない機能が次々と付け加えられています。もうじき、私たちは携帯電話なしでは生活できないことになりそうです。
 一方で、携帯電話は私たちを監視することが出来ます。私たちが数時間前にどこにいたか、何丁目何番地のビルの何階にいたかまで判るそうです。電源を切っていても、微弱な電波が流れていて最寄の局とつながっているのです。これが最近では犯罪捜査に役立っていますが、同時に完全な監視システムになっています。携帯電話のことを英語ではMobile phone(モバイルホン)といいますが、これはモービルとも発音する英語で「移動式または可動式の電話」という意味です。
 しかし、若者にとって最も大切な必需品は聖書です。携帯電話は誰か親しい人との会話に必要ですが、聖書は神様との会話に必要です。聖書もいつも携帯していたい備品ですね。

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、伝道の書12:1

 ところで聖書が携帯できるようになったのはごく最近だと言う事をご存知でしょうか。
それまでは巻物であったり、人の手によって書かれた大きな本で、ユダヤ教の会堂やキリスト教の教会に一つしかないというようなものでした。特にカトリックでは聖なる書物なので一般民衆は触ってはならないとさえ教えていました。年に数度、特別な日に祭司が聖書を頭上に掲げて、「福音、福音」と叫んで練り歩くのでした。
 16世紀にルター、カルビンらの宗教改革によって、聖書は民衆が自分の国の言葉で読むことが出来るようになりました。これにはそのころ発明されたグーテンベルクの印刷機が大いに役に立ちました。それでも聖書は非常に高価なものでした。イギリスでさえ17世紀にジェームス一世が認めたKing James Versionまでは聖書は禁じられた書物だったのです。今のように、家庭で、あるいは個人で手軽に持ち歩くことが出来るようになったのはほんの100年前からです。ですから人々は耳で聞いて暗記していたのです。最近まで中国では聖書は簡単には手に入りませんでしたから、人々は書き写していました。私たちはもっとこのことを感謝すべきですね。
 携帯電話は電波によって人の声を運んできますが、聖書は神の言葉を書いています。

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。Uテモテ3:16

 ここに言う霊感とは、特別に神から送られた感動です。人がそれを書くとき、他の宗教やオカルトのように、いわゆる“自動筆記”するのではありません。その人の思想や感性を通して神の意志が間違いなく伝えられるのです。人を教え、戒め、正しくし、義に導く。何と素晴らしい書物でしょうか。何と素晴らしい機能を備えた備品でしょうか。教会では「もっと力をください」「悟りをください」と祈ることがありますが、聖書の中には、私たち人間に必要なことは全て書かれているのです。必要かつ十分に。それなのに、さらに要求するのは間違いです。聖書も常時、霊的な設定の中にありますから、聖書から霊感を受けたり、新しい力や有益なサジェッションを受けることが出来ます。
 聖書は文字に書かれたイエス・キリストです。

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。ヨハネ5:39

 ここにイエス様が聖書と言っているのは旧約聖書のことです。旧約聖書は律法と預言者とも言われます。それは全てイエス様を表すものだとイエス様は断言しています。イエス様には永遠の命があり、神の愛があり、救いがあります。私たちは、今、その尊い書物をいつでも携帯できるのです。

 聖書が今のような形で完成されたのは旧約聖書が紀元前100年ごろ、新約聖書が紀元100年ごろのことです。それまでは“聖書は書かれつつあった書物”でした。

また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。Uペテロ3:15〜17

 これは使徒ペテロがパウロの手紙について述べた箇所です。ここでペテロは“書かれつつあった”パウロの手紙を「ほかの聖書についてもしているように」と聖書と同列に置いています。これは非常に驚くべき言葉です。ペテロはパウロの書いているものが後に聖書となることを知っていたのです。それこそ“霊感”だったのでしょう。

愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。Uペテロ3:1〜4

 間もなくキリストは再び来られます。その時、私たちは電話越しでなく、直接あの方にお会いし、声を聞くことが出来るでしょう。その前にしばらくの間。「あざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない』と言うであろう」という時が来るでしょう。いや、もう来ているのです。これからますます便利な時代が来ます。しかし、同時にそれは私たちにとって好ましくない結果も生むでしょう。私たちは一層、注意深くあるべきです。と言っても携帯電話が危険だと言うわけではありません。ただ、どうぞ聖書も一緒に携帯してください。