メッセージ061029                    小 石  泉

わたしは常に


 ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌
わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。
わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。
わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。
主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。
この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。
主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。
主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
詩篇34:1〜8(口語訳)

 何と美しい詩篇でしょうか。神への完全な信頼を歌っています。しかし、そこには意外な事実があるのです。ここにダビデという人の驚くべき信仰の秘訣を見ることが出来ます。
 ここにあるアビメレクというのは、ダビデがイスラエルの王サウルにねたまれて殺されそうになり、逃れて行った敵のペリシテ人の王の名前です。この事件は第一サムエル記に書かれているのですが、そちらにはアキシュと書かれています。それはエジプトのパロ、ローマのカイザルのようなペリシテ人の王様の称号です。
 この事件の前にダビデは親友だったサウルの子ヨナタンが父サウルの気持ちを確かめて、殺されることが判ったため、急いで逃れるように言われて取るものもとりあえずノブという祭司の町に逃れました。このノブはエルサレムの北にあった町ですが、当時、神の神殿である幕屋(天幕)がありました。ダビデは供のものと一緒に、祭司アヒメレクに頼んで、神に供えた後下ろされた聖なるパンを食べ、ダビデがかつて倒したペリシテの勇者ゴリアテの剣を手に入れます。後でこのことを知ったサウル王は祭司85人を殺し、この祭司の町ノブを滅ぼしてしまいます。サウルはダビデが優れた人物で、自分に代わって王になることを非常に恐れていたのですが、それにしても同胞のイスラエル人の町を滅ぼし、祭司を大量に虐殺したサウルは神の前で実に大きな罪を犯したものです。サウルは自分の地位を失うことを恐れるあまり異常になってしまっていました。
 なお、ここでペリシテの王がアビメレク、ノブの祭司がアヒメレクと似た名前になっていて混乱する場合がありますので注意しましょう。アビメレクは「王の父」アヒメレクは「王の兄弟」という意味です。同じアラム語だったのでしょう。

ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気違いだ。なぜ、私のところに連れて来たのか。私が気違いでもほしいというのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来たのか。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。Tサムエル21:10〜22:2

 ダビデが敵のペリシテの王の所に逃れていったのは、それほど困っていたのでしょう。もしかしたら助けてくれるかもしれないと思ったのです。しかし、アビメレクはダビデを警戒しました。絶体絶命です。敵の真ん中でどうした良いのでしょう。ダビデはとっさに気違いのふりをします。「それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした」。窮余の一策とはいえ何と惨めで危なっかしい状態だったことでしょう。たまたまアビメレクがダビデを追放したくれたから良いようなものですが、殺されても不思議はなかったのです。
 詩篇34篇は、このときに歌われたものだと書かれています。何ということでしょうか、誰がこんな惨めな状態で、神に賛美を捧げられるでしょうか。私たちは、勝利の真ん中で神を褒め称えることはできますが、むしろ敗北でさえある状態のときに、なお、神を賛美できるでしょうか。
 使徒たちも同じように困難な状況の中で神を賛美しています。

真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。使徒16:25〜26

 このことの前にパウロとシラスは、何の法的な違反もなく、ただ女奴隷の占いの霊を追い出したためにオーナーからねたまれて、裁判も受けないで鞭打ちの刑に処せられ、足かせをはめられて牢屋につながれていました。鞭の傷からは血が流れ、痛みは去ってはいませんでした。しかし、彼らは祈りつつ賛美していました。その時、奇跡が起こったのです。
 神のために辱められ、苦難に会うことを使徒たちは喜んだとさえあります。

そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。使徒5:41

あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。ピリピ1:29

 ダビデのケースとはちょっと違いますが、苦難の時にクリスチャンの取るべき態度としては同じです。神への信頼。神のために生きる者の平安と喜びと意味。私たちは決して意味なく苦しみにあうことはないのです。

あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。イザヤ50:10(口語訳)

 神の僕はいつも良いと思われることばかりあるのではありません。子供に痛みや苦しみや悩みを与えなければ返ってどうしようもない無力な大人になってしまうように、神様は御自分の愛する子を訓練します。

そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ヘブル12:5〜11

 ダビデは気違いのふりをしてかろうじて危機を脱したとき「ああ、神はなぜ助けてくれなかったのだろうか」と不平を言いませんでした。むしろ「わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない」と歌ったのです。私には理解できないほどの信仰です。このような危機に会うのも神の許しなしには起こらないと信じていたのです。
 私が船橋で開拓伝道を開始したとき、全く援助もなく教会堂もなく、信徒もいませんでした。最初の正月に全くお金が無くなってしまいました。来月支払う家賃がありません。しかし、私たちは神様により頼むと決めていました。無謀なことですが、もし神様が助けてくれなければ私たちは神様に選ばれていないのだと思ったのです。従業員の給与を支払うのは社長の仕事です。私たちは神の国の従業員ですから、神に養われようと話し合いました。しかし、月末になってもお金は来ませんでした。そして翌月の2日に、ある姉妹から封筒が送られてきました。その中にちょうど家賃分のお金が正確に入っていました。
 神により頼むとき、神様は試験をするような気がします。「本当に、わたしにゆだねますか? 他には頼りませんか?」そして、その時から、人間的に言えば、決していつも十分に満たされたわけではありませんが、とにかく私たちは開拓を継続し、現在の教会になりました。もっとも私たちは献身者でしたから、そういう判断をしたのであって、通常は働いて収入を得るべきです。次の言葉は働かないでも良いといっているのではありません。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。マタイ6:21

 いつも神により頼むこと、ダビデは自分のできる最善を判断して行動したのです。それは惨めで危うい判断であったにしても、神様はそれを許されたのです。恐らく、ダビデという類(たぐい)まれな人をもっと完成するために、謙遜と従順を学ばせるために、神様はあえてこのようなきわどい橋を渡らせたのでしょう。
 もし、あなたが、今、困難や苦痛に会っているなら、それは神様が許されているのです。それは、あなたを鍛え、磨き上げて、もっと完成されたクリスチャンにするための学習なのです。だから、

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Tテサロニケ5:16〜18