ホームページ・メッセージ061022 小 石 泉
天国への旅
今週は、色々と難しい話は差しおいて、天国のことを考えて見ましょう。私は天国を思うとわくわくするのです。早く行ってみたいのですが、ためらいもあります。なぜって、何しろ全く違う世界なのですから。海外旅行でさえ、行く先の国の知識があっても、実際に行ってみないと分からないことが多いです。まして天国は未知も未知、こちらの常識が全く通用しない国なのです。
実は今回、天国について調べてみて、驚いたのは「天国」という言葉は口語訳聖書にしか出てこないことでした。しかも、マタイによる福音書だけです。新改訳では「天の御国」。新共同訳では「天の国」となっています。ちなみに天国、神の国、御国、天の国のそれぞれの数は次のようになります。
口語訳 新改訳 共同訳
天 国 32 0 0
御 国 27 65 18
神の国 69 67 68
天の国 0 0 32
(合計) 128 132 118
さて、天国は、実際にあるのでしょうか。実はマタイによる福音書を読むと、イエス様は天国と言う言葉を「福音」または「教会」と同じ意味で使っていることが多いようです。むしろほとんどの場合両方に受け取れます。もちろん、実際に第三次元を超越した場所としても使っています。私は今回は後者の方をお話します。
人間は死にます。不思議ですね。死んだ後、どうなるのでしょうか。無くなってしまうのでしょうか。何か別のものに生まれ変わるのでしょうか。それともキリスト教の言うように、霊魂は不滅で、永遠に生きるのでしょうか。一つだけはっきりしていることは、人は必ず死ぬということです。そして聖書によれば人は死んだ後に神の前で裁かれるために生き返ります。そして神の基準を満たしていなければもう一度死にます。
そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、ヘブル9:27
しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。黙示録21:8
耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない。2:11
この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。20:6
色々、議論のあるところですが、はっきりしていることは、キリストを信じているものは第二の死に合わないということです。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。ヨハネ3:16〜18
信じるものは「裁かれない」のです。救われているからです。キリスト教の言う救いとはこのことです。私はクリスチャンは裁かれることすらない、と信じています。なぜなら、そのために神のひとり子が十字架におかかりになったからです。もし、クリスチャンが裁かれるなら十字架の意味はなくなります。クリスチャンとは贖われたもの、罪許されたもの、永遠の命を約束されたものなのです。
そんな、虫のいい話があるものか! そうです、ほんとうに虫がいい話です。そして虫が良くなければ救われないのです。人間は自分の努力では自分を救うことは出来ません。ただ、キリストの十字架だけが私たちを救うのです。それどころかクリスチャンには次のような約束がされています。
わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。マタイ16:19
カトリックはこれをペテロだけが受けたものと考えて、その権威はバチカンにあるといいますが、私たちはすべてのクリスチャンに与えられた権威と信じています。そして、私たちは次のようになります。
そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。マタイ13:43
賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。ダニエル12:3
これは単なる比喩や言葉の約束ではなく、本当にそうなるでしょう。韓国のあるクリスチャンが死んで天国に行ったとき、動いている星を沢山見ました。近づいてみるとそれはみんな救われた人々だったということです。彼はよみがえってからそのことを証しています。私は馬鹿といわれようと、単純だといわれようとそう信じています。幼子のように。
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。18:4
さて、天国に行ったら、まず主イエスと神様にお会いしましょう。神様は目には見えないでしょうが、その臨在は圧倒的なものでしょう。そして私のために十字架におかかりになった尊い神の御子にお会いして感謝を捧げましょう。それは想像を絶する体験でしょう。その荘厳さ、偉大さ、清さ、壮大さは地上のどんなものでも表すことが出来ないでしょう。私はただおろおろとその威厳の前にさまようかもしれません。
そして、それから、出来ることなら今の天、宇宙を旅したいものです。太陽系を越え、シリウスや北斗星やさらに宇宙の果てまで飛んで行きたいのです。ただし、もしかしたらその時には今の宇宙は無くなっているかもしれません。
しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。ヘブル3:7〜13
そうしたら、出来ることなら、天国の資料館に行って、天地創造から今に至るまでの宇宙と歴史を見せていただきます。何しろ時間は無限にあるのですから。永遠の命を持っているのですから。永遠というのは時間のない状態だと思います。ですからどんな長い歴史も一瞬に見ることができるでしょう。
それから、新しい天と地を見物しましょう。
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。黙示録21:1〜4
その都は「すきとおったガラスのような純金で造られていた。都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。」とあります。何と豪華なことでしょう。皆さん、どうぞこの世で何カラットのダイヤだの何ミリの真珠などを目の色を変えて買わないでください。そんなものは天国では砂利のくずみたいなものですから。
わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。21:22〜27
何と素晴らしいことでしょう。神ご自身と御子が聖所なのです。最後の言葉が少し気になりますね。「汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない」
ちょっと自信を失いそうですが、「はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである」とあるから、多分、大丈夫でしょう・・・・。
こうして考えてみると、十字架とは何と偉大な働きだったことでしょう。あなたの永遠の未来が保障されているのです。天国行きのパスポートには神の御子の血判が押されています。あなたは用意できていますか?