ホームページ・メッセージ061015 小 石 泉
本物のキリスト教を見た
8日から11日まで開かれた聖霊宣教大会で久しぶりに本物のキリスト教を見ました。近年、このような大会の講師は、怪しげな霊媒もどきばかりだったので出席しなかったのですが、今回は違うらしかったのと私が応援している新川宣教師が通訳をする関係で出席したのです。前半の講師はフィジー諸島の方で、今起こっている教会の悔い改めと信仰の回復によって教会ばかりでなく地域や自然までが回復しているという証でしたが、こちらは出席しませんでした。聞いた人によると「謙遜こそ大切」と強調されていたということで、それは大切なポイントだと思いました。
後半の講師は中国の家の教会(非公認の地下教会)の指導者だったブラザー・ユン師とスー・ヨンツエ師でした。お二人の証は使徒行伝そのものでした。迫害、逮捕、投獄、拷問、数十年にわたる牢獄生活、そしてペテロのような奇跡の癒しと脱出。これらの詳しいことは「天国の人」という本に書かれているので省略しますが、私が特に感銘を受けたのは、彼らが自由な西側に出てきてからも誤解、中傷の連続で決して有名人になって豊かな生活を謳歌するといった人々ではないことでした。近頃の“リバイバル運動”は苦労もなく、にぎやかで華やかな信仰だけを追い求めているような気がしてなりませんでしたから、彼らの苦闘の連続は本当のキリスト教の姿を見ている思いでした。
今、キリスト教の中心はアジアにあります。中国、韓国の信仰復興(リバイバル)は目覚しいものがあります。中国ではすでに人口の10%、一億人以上がクリスチャンです。韓国でも30%、インドネシアも10%です。
中国のリバイバルは、西欧諸国の植民地、日本軍による侵略、共産主義と国民党の内乱、共産主義政府による圧制、文化大革命などの悲惨な歴史の中で偶像と迷信と悪霊の働きが失われた結果起こったものです。韓国もしかりで日本による占領、南北戦争による破壊を通して、やはり同じような霊的な清掃が起こったからです。しかし、日本ではいまだに、偶像礼拝も悪霊の働きも活発ですからリバイバルの起こりようもありません。リバイバルは飽食と贅沢の中からは生まれてこないのがアジアの特徴です。
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。ヨハネ16:33
イエス様はこの世では「悩みがある」と言っておられます。安楽と感謝ではないのです。
ところが、あるユダヤ人たちはアンテオケやイコニオムから押しかけてきて、群衆を仲間に引き入れたうえ、パウロを石で打ち、死んでしまったと思って、彼を町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいる間に、彼は起きあがって町にはいって行った。そして翌日には、バルナバと一緒にデルベにむかって出かけた。その町で福音を伝えて、大ぜいの人を弟子とした後、ルステラ、イコニオム、アンテオケの町々に帰って行き、弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。使徒行伝14:19〜22
これが使徒たちの福音伝道の姿です。パウロは石打の刑と呼ばれるリンチに会いましたが奇跡によって起き上がったのです。そして「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語ったのです。わたしたちが使徒の時代と同じような奇跡を期待しようと思うなら、彼らと同じ痛みも苦しみも受けなければなりません。投獄、拷問、死はいやです、華やかな奇跡だけ欲しいでは虫が良すぎるし、それはキリストのキリスト教ではありません。
ある時、わたしたちが、祈り場に行く途中、占いの霊につかれた女奴隷に出会った。彼女は占いをして、その主人たちに多くの利益を得させていた者である。この女が、パウロやわたしたちのあとを追ってきては、「この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたがたに救の道を伝えるかただ」と、叫び出すのであった。そして、そんなことを幾日間もつづけていた。パウロは困りはてて、その霊にむかい「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った。彼女の主人たちは、自分らの利益を得る望みが絶えたのを見て、パウロとシラスとを捕え、役人に引き渡すため広場に引きずって行った。それから、ふたりを長官たちの前に引き出して訴えた、「この人たちはユダヤ人でありまして、わたしたちの町をかき乱し、わたしたちローマ人が、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しているのです」。群衆もいっせいに立って、ふたりを責めたてたので、長官たちはふたりの上着をはぎ取り、むちで打つことを命じた。それで、ふたりに何度もむちを加えさせたのち、獄に入れ、獄吏にしっかり番をするようにと命じた。獄吏はこの厳命を受けたので、ふたりを奥の獄屋に入れ、その足に足かせをしっかりとかけておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。ころが突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった。獄吏は目をさまし、獄の戸が開いてしまっているのを見て、囚人たちが逃げ出したものと思い、つるぎを抜いて自殺しかけた。そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。16:16〜34
ブラザー・ユン師とスー・ヨンツエ師に起こったことはまさにこのようなことでした。ユン師は投獄されたとき拷問によって両足を折られて歩くことが出来ませんでした。しかし、奇跡の脱獄の夜、主イエス様が現れて一瞬のうちに癒され、自分の足で出て行ったのです。奇跡は確かに素晴らしいですがその前に逮捕、投獄、拷問があったことを覚えなければなりません。彼らの証を聞いていると、決して雄々しく平然とそれらの苦境を受け入れたのではなく、やはり、恐れ、悩み、痛み、苦しんでいるのです。私も苦難はいやです、しかし、最近、盛んに持たれているような苦しみも、悩みもなく、サーカスか、イリュージョンか、魔術の大会のようなパフォーマンスの“リバイバル”がいやなのです。それは偽りのリバイバルであり悪霊の馬鹿騒ぎにすぎません。アメリカから来るこれらの偽預言者たちに気をつけてください。私は彼らが、実はサタンの使わした人々であることを、元サタン礼拝者であったがキリストによって救われた人々から聞いています。彼らは命がけでこの証言をしています。
ヘブル書には信仰者が受ける苦難と栄光が書かれています。特に11章を(長すぎて、全部をここに移すことはできませんので)読んでください。
彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。11:33〜12:3
「この世は彼らの住む所ではなかった」これは今も真実なのです。キリストに生きようとするなら、この世では受け入れられないことを覚悟すべきです。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。ヘブル12:2(新改訳)
私たちの信仰の創始者が苦しみの人だったのですから、私たちは楽しみと平安だけを求めるべきではないでしょう。もちろん、神様は私たちを喜んで苦しみに合わせようとは考えておられないことでしょう。しかし、苦難のないリバイバルなど存在しません。苦難に打ち勝つ信仰を与えていただきましょう。本当のキリスト教を求めましょう。