ホームページ・メッセージ061001            小 石  泉

人間の悲惨


次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。ローマ3:10〜18

 毎日、毎日、殺人事件。日本はどうなったのでしょうか。世界一安全といわれた国が、世界でもまれに見る凶悪犯罪の国になってしまった。当たり前のことですが、殺された人々の残りの人生は、もう無い。希望も夢も、無くなってしまった。一人の人がいた空間が空いてしまった。誰も埋めることが出来ないけれど、親族や友人にとっては、いつまでもなくならない空間。人間って何なんだ? 亡くなった人々の人生の続きはどこにあるんだ?
幼子が殺されたら誰が復讐してくれるの? 犯人が死刑になっても残されたものの悲痛な思いは一生消えることはない。人間って悲惨ですね。
 中でも一番不可解なのは、殺しても、死刑にならなかったり、時効で無罪になることですね。「先生は死刑賛成論者ですか、意外です」という意見もあるかも知れませんが、私は聖書に従います。聖書は明快です。

人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。出エジプト記21:12

 人を殺したら、理由のいかんを問わず死刑です。(ただし、はずみや間違って殺してしまった場合を除きます。これについては後ほど述べます。)

もし人が隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたように自分にされなければならない。すなわち、骨折には骨折、目には目、歯には歯をもって、人に傷を負わせたように、自分にもされなければならない。獣を撃ち殺した者はそれを償い、人を撃ち殺した者は殺されなければならない。レビ記24:19〜21

 「目には目を」という言葉は、しばしば怨みや復讐の意味に受け取られていますが、聖書がいうのは正しい裁きです。今、改めてこの御言葉が新鮮に感じられますね。
 また、子供が親を殺すことも流行っています……。聖書では親殺しは重罪です。

自分の父または母を撃つ者は、必ず殺されなければならない。人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。民数記21:15〜17

 呪うだけでも死刑です。しかし、この頃は親が自分の子供を虐待しますね。これは聖書には、ほとんど見ることができない罪です。聖書は親が子を愛するという前提で書かれているように思います。それが自然の姿なのでしょうから。ただし例外もあります。エルサレムが敵に包囲されたときには悲惨な事件が起こりました。
 時効についてですが、その道に詳しい人によると、それは金銭の問題なのだそうです。犯人を追うのにもお金が掛かります。捜査に刑事を一人配置しておくのにも、給与、必要経費など一日に数万円掛かるのです。それが20年となると、数億円の費用が掛かります。しかし、捜査しなくても、時効による無罪放免は無しにしても良いのではないかと思います。何かのきっかけで出てくればいつでも有罪にすべきです。こんなことが続くと、それこそ復讐による殺人も頻繁に起こってくるでしょう。
 聖書ではあやまって人を殺してしまったときには救済の手段がありました。イスラエルには6つの「逃れの町」というのがあり、あやまって人を殺してしまった場合、そこに逃げ込めば、その町の祭司がその人を言い分を聞き、それが故意でないと判れば死刑や復讐から逃れることが出来るようになっていました。ただし、その町から出たら殺されても仕方がありませんでした。

イスラエルの人々に言いなさい。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときは、あなたがたのために町を選んで、のがれの町とし、あやまって人を殺した者を、そこにのがれさせなければならない。これはあなたがたが復讐する者を避けてのがれる町であって、人を殺した者が会衆の前に立って、さばきを受けないうちに、殺されることのないためである。あなたがたが与える町々のうち、六つをのがれの町としなければならない。民数記35:10〜13

 それにしても有史以来、どれほどの人が人によって殺されたのでしょうか。そもそも、どうして人は人を殺すのでしょうか。私自身、殺意を持ったことがあります。それが人間の持つ原罪の最も顕著な表れなのでしょう。

カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。創世記4:8〜16

 人間はアダムとエバの次の世代に、もう殺人を犯しました。人間は人の命を創り出すことが出来ないのに失わせることは出来るのです。創造は出来なくても破壊は出来るのです。途中で失われた命はもう償われることは無いのでしょうか。私はこの一事からでも、人間はこの世だけで終わるものではなく、続きがあるとしか思えません。
 それにしても神様はなぜカインを死刑にしなかったのでしょうか。人を殺したものは殺されなければなりません。それなのに神様はカインを守ることにしています。殺人の原則には合いません。これは私には判りません。第一、カインは誰に殺されるといったのでしょうか。アダムとエバの子供たちはカインとアベルの他にも居たのでしょうか。それともアダムとエバは人類の代表なのでしょうか。
 アベルという名前は奇妙なことに、死、はかない、葬式というような意味です。ヨセフが父ヤコブの葬式をしたとき、カナン人は「大いなるエジプト人の葬式」という意味で、アベルミツライムと呼んでいます。ミツライムとはエジプトの古い呼び方です。どんな場合でも、親がそんな名前を自分の子供に付けるというのも考えられないので、恐らくこれはアベルの死後付けられた名前なのでしょう。
 カインに与えられた罰は放浪者となることでした。そしてカインを殺す者は七倍の復讐を受けるとさえ約束されています。これではまるで祝福のようです。しかし、カインの家系にはろくな人間が生まれていません。その後の人類の悪人の源泉のような家系です。本当に理解不能です。
 ところでイエス・キリストは死刑になりました。罪状は聖書によると「冒涜」でした。

すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。マタイ26:62〜66

 神の子が、「生ける神に誓って答えよ」という質問に正直に答えたのは「自分は神の子」であるというものでした。それは「死に値する」と祭司たちは思いました。そして彼らはキリストを死刑にしました。カインがアベルを殺したのは神への捧げ物に関するねたみ、つまり宗教の問題でした。キリストが祭司たちに殺されたのも、彼らの神に関する宗教と違っていたからです。大祭司はイスラエル人の代表であり、イスラエルは人類の祭司の民だったから、人類全体がカインのようにキリストを殺したのです。人類全体がキリストを殺したゆえに、殺される運命にあります。
 しかし、キリストは死からよみがえり、人類の罪を贖われました。信じるものは罪を許され永遠の命を持ちます。人間の悲惨を全く作り変えるのはキリストの血なのです。

新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
ヘブル12:24