ホームページ・メッセージ  060923         小 石  泉

種 と 土


イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞くがよい」。マタイ13:3〜9

 日本で伝道していて痛感することは、その難しさです。イエス様のたとえのように、よく耕された肥沃な土地に種を蒔くなんて夢のような話です。お百姓さんでも、土地にただ種を蒔いて、成長を見守るというのではなく、まず土を作るという作業が必要です。
 最近、話題になっている南米ボリビアの開拓入植者のように、政府に騙されて、全く農耕に適さない不毛の土地から収穫を得るには、まず、土地そのものを農地にしなければならず、その過程で多くの人は倒れていったのです。私も私の父が何を思ったのか、戦後、飛行場跡地をもらって開拓するという無謀な企てをしたために大変な苦労をしたのを見てきましたから、幾分かはそれが判るのです。そこは南米のジャングルほどでないにしても、笹の生い茂る不毛の土地でした。それを開拓し、やっと作物を作ることが出来る土地にした頃には、もう日本は経済成長期に入っていて農業より工業や商業のほうがはるかに効率の良い収入を得ることになっていました。
 日本でキリストの福音を伝えるのはこれと良く似ています。しばしば私たちは、伝道というのは、ただ大地に種を蒔くことだと考えがちですが、実はその土地は何も生えていないのではなく、仏教思想、先入観、偏見というジャングルが生い茂っているのです。言い換えれば、ゼロからスタートするのではなく、マイナスからスタートするようなものです。私たちの教会の回りの多くの人々は心優しく、礼儀正しいのですが、一旦福音を伝えようとすると「関係ありません」と扉を閉ざされてしまいます。キリスト教は外国の宗教、神話、到底到達不可能な高い理想を追い求めている気の毒な人々ぐらいに思っているのです。
 時々、日本語そのものが妨げになっているのではないかと思うことがあります。前にフイリッピンの少女に伝道したことがありますが、英語でほんの一時間ぐらい話しただけで彼女は信仰を持ちました。あまり簡単だったのであっけに取られました。
 この土作りのために色々な方策が試みられました。また、色々なチャンスがあります。
1. 死や大病によって、命のはかなさ、自分の卑小なことに気がついた時。また、クリスチャンの祈りによって癒された時。
2. 政治的な変動や戦争によって大きな試練に会った時。
3. 教会音楽やクリスマスなどの美しさに魅力を感じた時。
4. クリスチャンの人柄、清さ、愛に感動した時。
5. 結婚式、葬式などでキリスト教に触れた時。
6. 聖書の御言葉や預言の的確さに驚嘆した時。
 まだほかにもあるかもしれませんが、これらの時が土が柔らかな時といえるでしょう。この中で、結婚式は最近開かれた新しいチャンスです。キリスト教式の結婚式を求める人々は最近では8〜9割になります。よく言われるように、キリスト教で結婚式をしても信仰を持つことはほとんどないのは事実ですが、土作りと考える時、得がたいチャンスと言えます。人間が人間以外のもの、人間以上のものの前で誓うという心を大切にすべきです。彼らが神を知らなくても、元々、神なるものは聖書の神以外には居ないのですから、神の前で誓うと言うなら、この方の前で誓うのは正しくて、他にはないはずです。それとも、偶像の前でするように薦めますか? 偶像の背後には悪霊が居ると聖書は言っています。

すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。Tコリント10:19〜20

 実は、日本の神前結婚式の歴史は意外に新しくて、明治時代にキリスト教の結婚式を見て感動した神主さんが始めたものです。これはある大会社の権威ある小冊子に書かれています。また、子供の誕生や成長の時に、神社にお参りし、死んだら仏教ではあまりにもご都合主義だと言われますが、人生の重大事の少なくとも一つはキリスト教が確保したとも言えます。実際に、未信者の結婚式をしてみて、彼らが判らないなりに、賢明に敬虔であろうとする場合が多く、またこちらが真剣にやると非常に感動して喜ばれることがほとんどです。ですから結婚式は土作りの非常に良いチャンスと言えます。
 また、この際、未信者との結婚について考えて見ましょう。

不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。Uコリント6:14

とあるようにクリスチャンは信仰のない人と結婚すべきではないという考えがあります。しかし、日本のような国でそれを厳密に実行したら、必ずクリスチャンの女性で結婚できない人が出てくるでしょう。絶対数が足りないのは明らかなのです。宣教師たちはそのことを厳重にいう場合がありました。しかし、日本の場合不信者とは「まだ信じていない人」ということも出来るでしょう。
 私は現代社会のサタニズムについて研究した者ですが、欧米には積極的な不信仰者がたくさん居るということに驚きました。彼らはキリストをあざけることを無上の喜びとし、神をののしることを聖なる行為とするのです。これはクリスチャンに説明しても到底信じてもらえないでしょう。しかし、彼らは表面的には敬虔なクリスチャンを装うことも教育されます。このような人々とは決してくびきを同じくしてはいけないことは当然です。
 私は積極的な不信者と、そうでなく、ただ知らないだけの未信者とは区別すべきだと考えます。実際、私の教会ではまだ未信者のときに結婚した兄弟が、今では長老として活躍しています。妻の祈りによって土が作られたのです。
 若い人々はまだ柔らかな土を持っていますから、信仰に入りやすいものです。同時に彼らが誤った信仰に導き入れられることもあります。オウムや統一教会の実例は心痛むことです。何とかして幾人かを真理に導きたいですね。

わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。Tコリント9:19〜23

 パウロ先生の心の叫びが胸を打ちます。私も若いころからそうなりたかった。しかし、空回りばかりで、本当にささやかな働きしか出来ませんでした。それでも良い、私の働きがジャングルを切り開くことだけであっても、その後に続く人々が良い土を作り、種を植え収穫を得てくれれば。

アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。Tコリント3:5〜7

「植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである」取るに足りない。本当ですね。種も土も結局、神の御手の中で作られ、成長させられるのです。全ての栄光は神に帰します。神よ日本を顧みて下さい。