メッセージ060910 小 石 泉
交わり
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。使徒行伝2:42
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。Tヨハネ1:7
クリスチャンにとって教会に来ることの目的は、神を礼拝すること、神の言葉を学ぶことですが、さらにここに言われている「交わり」をすることがあります。
この交わりという言葉はギリシャ語では「コイノニア」と言います。英語ではFellowshipですが、日本語の交わりも英語のFellowshipもギリシャ語のコイノニアという言葉を正しく表していないように感じるのです。例えば次の御言葉を考えてください。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。ピリピ13:13
キリストの恵み、は判ります。神の愛も判ります。でも聖霊の交わりとは何でしょうか。
こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、Tコリント2:1
ここにも書かれているように聖霊に関しては必ずと言っていいほど交わりという言葉が使われているのです。聖霊と交わるということは具体的にどうすることなのでしょう。初代教会の人々は「互いに交わりをしていた」とありました。聖霊も人と同じように「交われる」のでしょうか。確かに交われるはずです。では「交わり」とはどうすることなのでしょう。
私たちが神に祈るときのことを考えてください。私たちは、神に向かって、イエス・キリストを通して、祈ります。言わば神という目的地に行く門、あるいはトンネルのようです。しかし、厳密に言うなら神とは交われません。キリストは一人のペルソナ(人格)ですから、全ての人が交わることは出来ません。しかし、聖霊とは何億人でも交われるのです。 そう考えると、コイノニアとは「共にいる」あるいは「一緒にいる」ということに違いありません。聖霊は共にいて神とキリストに導いてくださいます。
もちろん大きな意味では神ともキリストとも私たちは交わることができます。
神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。Tコリント1:9
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。Tヨハネ1:3
ここに言う「御父および御子イエス・キリストとの交わり」とは聖霊による間接的な交わりのことです。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。マタイ18:20
とあるように、実際にはこの場合のイエス様とは、目で見ることも触ることも出来ません。むしろここに臨在しておられるのは聖霊です。聖霊はキリストを表すことを目的としています。だから2,3人が集まっていると無意識のうちに聖霊に導かれてキリストが共に居られるという意識に導かれるのです。
こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。ピリピ2:1〜11
若い人は愛する人に出会うとき、共に居たいと思うでしょう。いつまでも一緒に居たいと。同じようにクリスチャンもキリストともいつも一緒に居たいと思います。それを助けてくれるのは聖霊です。聖霊はクリスチャンに、キリストと共に居るという感覚を与えてくれるのです。そしてそういう人々は共に居たいと願います。
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。使徒行伝2:42〜47
クリスチャンが教会に集まるのは、神を礼拝するためであり、御言葉を学ぶためであり、さらに「共に居るため」です。
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。ヨハネ15:1〜6
「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません」「もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます」。教会はキリストの枝です。さらに私たちはその小枝です。つながっていなければ枯れてしまいます。
一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。ローマ12:45
もし、パウロが細胞という言葉を知っていたら、この器官という言葉の代わりに使ったでしょう。あるいは原語はそういう意味かもしれません。細胞はつながりあって、一つの体を構成します。そこには血が流れます。いわば聖霊はその血のように私たちの間を流れるのです。そこに教会が生まれます。教会とはギリシャ語では「エクレシア」と言いますが、エクレシアとは「集会」「集まる」ということです。ですからエクレシアは一緒に集まるコイノニアが必要なのです。