メッセージ060827                     小 石  泉

希 望


こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。Tコリント13:13

 希望という日本語はすばらしい言葉ですね。希は「まれな」という意味です。希少価値などに使われます。めったにないほど貴重なということでしょう。尊い望みというのですから「宝石のような心の願い」という意味でしょう。それに比べると英語のHopeは、なんだか貧弱ですね。もっとも私は英語の語源や成り立ちを知りませんから、そう思うのかもしれません。聖書のヘブル語やギリシャ語の意味は残念ながらわかりません。
 信仰と希望はどう違うのでしょうか。信仰は神に対するものであり、希望は人間のものです。希望は自分が持っているときに意味があります。そして愛は、神と自分、人と自分の間にあるものです。
 さて、あなたに今、希望がありますか? 日本人全体に希望があるでしょうか。私がものごころつくころ、太平洋戦争が終わりました。日本人は敗戦に打ちひしがれ、荒廃した国で貧しさと戦っていました。しかし、それまで軍部の横暴と高慢に圧迫されていたものが開放され自由になり、なんとも言えない希望に満ちていました。そして、その後、希望していたものをほとんど手に入れました。しかし、手に入れてみると、今度は希望がなくなりました。今の若い人を見ると、希望がないなと思います。それは希望がこの世のもの、物質的なものだったからでしょう。
 聖書が「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」というとき、それは物質ではないことが分かります。すべては精神的、霊的なものです。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5:1〜5

 「練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません」クリスチャンの希望は神とキリストとの接触によって与えられます。私たちは“キリストの身代わりの死によって、神と人とを隔てていた罪の障害を取り除かれ、永遠の命に至る希望と、この世で神と共に生き、いつか神の国に住む”という希望を持っているのです。
 人々は子供が生まれる希望を持ち、子供の成長に希望を持ち、良い幼稚園、小学校、中学校に通う希望を持ち、受験して良い高校、大学に入る希望を持ち、良い就職先に希望を持ち、昇進に希望を持ち、退職して安楽な余生に希望を持ち、潔い、安らかな死に希望を持つ・・・・のでしょうか? その先には極楽浄土に希望を持ち、輪廻転生して成仏する希望を持っている・・・・のでしょうか? どうも人生の半ばからは希望とは言えないものになるように思います。生まれたから仕方なく生きている、というのが本音ではないでしょうか。しかし、クリスチャンには希望があります。その希望は永遠の命です。いつまでも続くもの。終わらないもの。そんなのは退屈だというでしょうか。永遠の命はこの世の命とは比較にならない輝きに満ちたものです。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。Uコリント4:16〜17

しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。ヘブル12:22

 しかし、クリスチャンの希望は死後の世界のことだけではありません。この世においても、神を神として崇め、神と共に生きることは、喜びと輝きに満ちています。神を信じないで生きるなんて、私にはそれこそ信じられません。そんな人生に何の意味があるのか。

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。エレミヤ29:11〜14

 「わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる」神は私たちの祈りに答えられ、私たちは神に会うことが出来るのです。
 神は私たちの祈りに答え、実際に必要なものを与えてくださいますが、神に何事かを求めて答えられることよりも、神に会うことのほうが、はるかに素晴らしい事だと言う事をご存知でしょうか。両親とはぐれた迷子のことを考えてください。その子は飴玉をあげても、お菓子をあげても泣きじゃくるだけでしょう。しかし、両親に出会ったら、すべての悲しみも恐れも吹き飛んでしまいます。神に会ったことのない人は、迷子と同じです。いろいろと捜し求め、神とは何かとか、どういうものかと山のような疑問を持っていても、ひと目会えば、何も要りません。そこに神が居られるだけで一切の疑問も悩みも胡散霧消してしまいます。神に会うということはその存在に触れる事です。

主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。T歴代史16:11

しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。詩篇17:15

幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。マタイ5:8  ↑89:15

あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。TペテロT:21

 今この瞬間にも世界では恐ろしい悲劇が起こっています。ある国では飢餓が、ある国では戦火が、ある国では圧制が人々を苦しめています。日本は平和で豊かですが、いつまた戦争と混乱が襲ってくるかもしれません。しかし、神に従う人々には「災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとする」神のご計画がなくなることはありません。

しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。ヘブル3:6
    
ですから、

約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。ヘブル10:23

そして、

もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。Tペテロ3:13〜15

 私たちはいつも自分たちの「うちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をして」いましょう。