ホームページ・メッセージ060820        小 石  泉

食べることの祝福

 最近、あるベジタリアン(菜食主義者)の方からEmailをいただきました。彼は、私が肉食であることを疑問視しておられました。私はすっかり考え込んでしまいました。実は最近、自分の病気のために毎日血糖値を計っているのですが、肉を食べた時が一番血糖値が上がることを知ったからです。焼肉、ステーキ、ハンバーグを食ると、翌日の朝になっても300を越えるのには驚きです。(病気でない人はこんなには上がらないと思います)
 先年、イスラエルに行ったとき、エンボケックというところで食べたベジタリアンのレストランの食事はとてもおいしかったことを思い出しました。

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。創世記2:16

 確かに、アダムとエバが神様から食べることを許されたのは「木の実」でした。木の実にはアボガドや大豆など肉に劣らないたんぱく質の栄養価の高い食品もあります。人類は最初ベジタリアンだったのです。その後、ノアのときに肉食が許されました。ちなみに野菜も食べたこともちゃんと聖書に書いてあります。

神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。9:1〜3

 恐らくこれはすでに肉食が始まっていたのを追認したのだと思います。ノアの先祖であるカインやその五代目に当たる悪党のレメクの食卓に肉がなかったとは思えないのです。しかし、カインが神に捧げた捧げ物が畑からの作物で、アベルが捧げたものが獣(羊?)の肉だったのは皮肉ですね。人類はアダムとエバの堕落の直後に肉食を始めたと考えられます。その後、肉食はイスラエルの神殿の祭事と共にごく一般的なものとなりました。
 それにしても、生きている動物を殺し、血を流し、肉を食べるということは、考えようによってはひどく野蛮なことですね。それが聖書では神に近づく方法としては動物の、そしてついには神の子の血を携えなくてはならないのですから、昔の日本人のような菜食主義に近い民族にとっては近づきにくい宗教だったことでしょう。
 ちなみに塩野七生さんによると、ローマ人は人身御供の習慣を忌み嫌い、当時ほとんどの他民族がやっていたその習慣の真似をしなかったということです。それがキリスト教はキリストとはいえ人の血を飲み肉を食べるというので迫害の一因になったようです。
 肉は最高に高カロリーの食物ですから、エスキモーなどの極地に住む人々にとっては無くてはならない食物であり、インドやアフリカなど熱帯に住む人々は野菜で十分なのだそうです。その中間に住む大多数の人類は肉と野菜を半々に摂っているのでしょう。
 パウロ先生は肉食を禁じていません。

すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。Tコリント10:25

 ただ、こういう言葉があります。

なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。8:10〜13

 これは、「もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら」肉を食べないと言っているのであって、パウロ先生が菜食主義者だったわけではありません。でも、なんとなく菜食主義が似合いそうな気はしますね。
 イエス様は肉を食べたでしょうか。もちろん食べました。イエス様はユダヤ人の慣習として、「過ぎ越しの祭」を守りましたが、その祭りのメインテーマはいけにえの子羊の肉を食べることだったからです。この過ぎ越しの祭は、イエス様の十字架を表すものです。
 ですから最後の晩餐において自分の肉を食べ血を飲みなさいと言われたのです。

またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。」ルカ22:19〜20
 
 私は昭和15年生まれです。私の幼少の記憶はまず“飢え”でした。いつも家には食物が無く、いつも空腹でした。今の北朝鮮みたいなものです。(北朝鮮は戦後60年以上飢餓が続いているのです。何と言う不幸な民族か!)そして日本は豊かになりました。しかし、幼少のころのストレスは人の記憶の中に留まります。私たちの世代は、飢えの恐怖というストレスの消えない世代なのです。しかし、希望がありました。一方、今の若い世代は飢えを知らない豊かな世代です。しかし、何と希望のない世代となってしまったことか。

ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。黙示録3:14〜22

 これは小アジア(今のトルコ)のラオデキアという教会に当てた忠告です。「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っている」。まるで今の日本を表しているようではありませんか。日本は、今、豊かです。しかし、それは物質だけであって、精神的には「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」です。あまりにもそっくりなので驚くほどです。日本の繁栄はあっという間に取り去られるでしょう。今こそ悔い改めるべきときです。イエス様はその方法を教えて下さっています。「あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」。まだあなたにはイエス様に受け入れられる可能性が残っています。「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」最後の最後まで神様は悔い改めの機会を与え、忍耐の限りを尽して待っておられるのです。
 それどころか「戸の外に立って、たたいている」とまで言ってくださいます。このような、ねんごろな言葉は、ここに出てくる七つの地方の教会ではこのラオデキアだけです。極限までの忍耐と寛容とを持って主は悔い改めるのを待っておられます。そして、面白いことに物質的な繁栄を謳歌しているラオデキアの人々が、もしキリストを受け入れるなら「食を共にする」と言われます。食事を共にすると言うことはいつの時代でも人間が一番楽しみにすることでしたが、飢餓とは縁のなかったラオデキアの人々にとって、食事はそれほど大きな報償とは思われなかったことでしょう。しかし、今の日本のように世界中のあらゆる食事ができ、満ち足りたような食事でも、そこに平安や愛の交わりがなければ、本当の宴会とはならないでしょう。主イエスが居られないならどんな宴会でも本当の喜びはないのです。

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。詩篇23:5

悩んでいる者の日々はことごとくつらく、心の楽しい人は常に宴会をもつ。箴言15:15

野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる。15:17

 私はたまに三日間ほど断食をすることがあります。その後で食べるおかゆやささやかな食事の何とおいしいことか。舌が非常に敏感になっていることを感じます。それはどんな高級レストランのディナーよりもおいしいものです。断食をすると人間の体は急激に反応します。ほとんどの消化器官の病気、特に痔などは四日間も断食すれば完全に直ると思います。手術する必要はないのではないでしょうか。お医者さんはどういうか知りませんが断食した人でないとその実感はないと思います。
 イエス様はしばしば食事の席で重要なお話をなさいました。婚姻の席で水をぶどう酒に変え、五つのパンと二匹の魚で5000人のランチを整えられ、最後の晩餐では御自分の命をパンとぶどう酒にたとえて与えられました。復活の後ガリラヤ湖でもパンと魚を用意されて弟子たちを再度召されました。このようにイエス様は食べると言う事を通して多くの真理を語られました。もう一度食べると言う事を感謝し、深く味わいたいものですね。