ホームページ・メッセージ060813 小 石 泉
全ての人が救われて
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。Tテモテ2:4
この御言葉は次のような文脈の中で語られた言葉です。
そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。2:1〜5
今週の火曜日の終戦記念日に小泉首相が靖国神社に参拝するかどうかが話題になっています。私には小泉さんがなぜそんなに靖国神社参拝にこだわるのか理解できません。「個人の信仰の自由だ」と言いますが、中国や韓国の人にとって靖国という言葉自体が戦時中の苦しい体験を思い出させる苦々しい言葉なのですから、なぜ、わざわざ相手の傷口に酢を注ぐようなことをしなければならないのか理解できません。
一体、靖国神社とは何でしょうか、なぜ小泉さんは参拝しなければならないのでしょうか。靖国神社は明治以降の戦争で死んだ兵士を祭っている神社です。太平洋戦争の時には戦争の勝利への祈りが熱心に捧げられた場所でもあります。今になって「平和のために祈る」と言っても、それは詭弁です。アジアの人々にとって同じように戦争の勝利を願っていると思うに決まっています。それでも参拝するというのには何か深いわけがあるのでしょうか。それともただ意地になっているだけなのでしょうか。
靖国に祈ることの意味の一つには、「心の拠り所」すなわち「神」としての位置づけがあるはずです。人は何らかの神に拠りすがることを求めているものです。多分、小泉さんもそこに心の拠り所を求めているのでしょう。しかし、私はいつも思うのですが、もし、戦後日本がソビエトに占領されていたら、靖国神社は存続しなかったでしょう。靖国問題なんてもの自体があり得なかったはずです。また、今後、中国や韓国と戦争になったら真っ先に木っ端微塵に破壊されるでしょう。神たるものは地球上の物質によって表現されるべきものではありません。靖国神社も伊勢神宮も人間が作ったのですから、人間が破壊することが出来ます。かつて、イギリスの皇太子が伊勢神宮を見学したとき、宮司がある場所を「ここから先は人間が入ってはいけないのです」と説明したそうです。すると皇太子は「作った大工さんは入って良かったのですか」と聞いたそうです。
真理は永遠であり、場所に依存しません。小泉さんが本当の神を知って、あのような熱心さを持って参拝されることを祈ります。
神様はすべての人が救われることを願っておられるのです。
ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。Uペテロ3:9
いろいろな事件が起こるとき、戦争や紛争があるとき、「ああ、神様はいつになったらこの世界に介入されるのだろうか」と思うのです。しかし、「すべての人が救われるために」長い長い忍耐をされているのです。
それにしても日本人のすべての人が救われることなどあるのでしょうか。いや、世界には日本人のようにかたくなに自分の信仰を守ろうとするイスラムの人々もいます。それらの人々が死んだり、あるいは最後の審判の時に、宇宙万物の創造者である神の前に出たとき、もはや悔い改める機会も与えられないで永遠に滅びて行くのでしょうか。そもそも、「滅び」とはなんでしょうか。
なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。(中略)千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。黙示録19:19〜20:10
ここは私が理解している限り、ハルマゲドンといわれる戦争の後のことです。この時、「獣」と呼ばれるものが「硫黄の燃えている火の池」に投げ込まれます。さらに「獣の刻印を受けた者」と「にせ預言者」が同時に投げ込まれます。獣というのはサタンのひとり子として地上に君臨する人物です。にせ預言者はその人物を褒め称え助ける人物です。そして獣の刻印を受けた者はサタンに従った世界の人々で歴史上ある特定の期間、3年半だけ悪魔に従った人々のことです。「悪魔でありサタンである龍」はこの時ではなく、「大いなる白き御座の裁き」の後、火の池に投げ込まれるとあります。
また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。20:11〜15
この「火の池」が「滅び」であると私は思います。サタンと獣とにせ預言者が滅びるのは納得できるにしても、黙示録13章にあるように、強制的に獣の刻印を受けさせられた者、すなわち人間の一部が火の池に投げ込まれるのはちょっと気の毒な気もします。
私はサタン礼拝、あるいはサタン崇拝者(英語ではサタニストSatanist)について少しばかり知っています。好んで調べたわけではなく、いつの間にかそういうことになっていたのです。その知識によると、サタニストというものは想像を絶するほど邪悪なものです。私が知っていることだけでも、到底すべてを書くことは出来ません。人間が普通持っている罪悪感などはむしろ美しいとさえ思えるほどです。サタニストにとって神は憎悪の対象です。そして神に逆らうこと、神の戒めを破ることはこよなく愉快なことなのです。普通、私たちは罪を憎み恐れますが、弱さによって罪を犯すことがあります。しかし、サタニストにとって罪を犯すことが善なのです。こういうことは普通のクリスチャンには理解できないし、他の宗教の人にとっても驚きでしょう。彼ら聖なる行為として人を殺すのです・・・・これ以上は書けません。人間の中にはこういう人々が確実にいます。特にアメリカ、ヨーロッパには。
彼らが火の池に投げ込まれることは当然です。しかし、神を知らなかった人々、日本のように、どこか妨げがあって、目の前にカーテンでも下りているかのように神が見えなかった人々、生まれて間もない子供、までが火の池に投げ込まれるとは私には思えません。神は愛であるとあります。そのような方が私たちに納得がいかない理不尽な裁きをするはずはありません。裁きの日に、「知らなかったのです!」と叫ぶ人々のために、もしかしたら神様には何か別の道が用意されているかもしれませんが、・・・・問題発言ですね・・・今、分かっているのはこの道だけです。もちろん救いはキリストの名以外にはないのです。
この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。使徒行伝4:12
確実に言えることは、キリストを信じる者はひとりも滅びないのです。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16
私たちはすべての人が救われることを祈りましょう。