ホームページ・メッセージ060806            小 石  泉

キリストの力を持つこととキリストに似ること


 今、キリスト教会の一部ではキリストの力が強調されています。それは特に、次の御言葉によって奨励されています。

そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。使徒行伝16:15〜18

よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。ヨハネ14:12

 確かに主はそう約束されました。私たちはそれを求めるべきです。キリストの力を持つことはすばらしい伝道の助けになるでしょう。しかし、もう一つ忘れてはならないことがあります。それはキリストに似ること、あるいはキリストを着ることです。

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。Uコリント3:18

 もし、キリストに似ること、その品性に近づくことなしに、力だけを得たとしたら、それは危険なことではないでしょうか。旧約聖書のサムソンはその一例でしょう。彼は大いなる力を持っていましたが、その品性は必ずしも神の栄光を顕しませんでした。気違いに刃物という言葉もありますが、もし、劣悪な品性の人間が強大な力を持ったとしたらその結果は恐るべきものとなりましょう。歴史と現実の世界でもそれは言えることです。
 そのようなことを強調するペンテコスト・カリスマ派で、強調される割には奇跡もしるしも起こらないのは、そのためだと思います。もし、品性が伴わないで偉大な奇跡やしるしが起こっているとしたら、それは聖霊ではなく悪霊によるものでしょう。そういうと反発されるかもしれませんが聖書にはちゃんと書かれているのです。

にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。マタイ24:24

 これからの教会にはもっともっとすごい業が行われることでしょう。サタンや悪霊が奇跡やしるしを行って見せるでしょう。そして多くのクリスチャンが惑わされることでしょう。今すでに起こっているではありませんか。

しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。Uコリント11:14

 私は、今ほどその危険性の多い時代はないと思います。あまりにも簡単にクリスチャンが騙されるのに驚きあきれています。
 奇跡やしるしを強調しない伝道者でも光の天使に偽装した悪霊の器がいます。サタンはこの終わりの時代に究極の惑わしを実行しています。驚くのは彼ら偽りの預言者たちは正しい福音を語って見せるのです。その説教は決して間違っていないのです。しかし、彼らがすることは間違っていなくても、しないことが間違っています。
 ある有名な伝道者はその伝道集会では正しい福音を語るのです。しかし、彼は歴代大統領やハリウッドスターの友人です。彼らがどんな生活をしようと決してとがめることはしません。彼らの晩餐会に出席して楽しく語らい、愛を示しても、彼らの生活を糾弾することはありません。とりわけ驚いたのは、クリントン大統領夫妻を無二の親友と呼び、講壇に上げ、祝福したことです。クリントン夫妻は同性愛者の支援者であることを公然と表明しています。そして彼ら自身も同性愛者です。クリントン夫人は交霊術をしているwitchです。(witchとは魔女と訳されていますがサタンへの献身者のことです。)
 講壇の上で、その伝道者はクリントン氏は伝道者になるべきだといい、夫人はアメリカの政治を導きなさいと公言しました。クリントン氏は次期国連事務総長になり、夫人は間もなく2008年に行われる選挙によってアメリカ大統領になるでしょう。 彼はバプテスマのヨハネのようにヘロデの悪行を指摘しませんから、牢にいられることもなく首をはねられることもありません。彼はいつでも人々の賞賛の的です。しかし、聖書は言っています。

人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。ルカ6:26

 人は全ての人に受けいれられるということはあり得ません。なぜなら必ずそこには悪人もいるのですから。キリストに似ることは決してすべての人々に喜ばれることではありません。

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
イザヤ53:1〜5

 キリストに似ようと思うなら、「見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」ことを覚悟しなければなりません。全世界の人々から賞賛されるならそれはキリストの反対のものに似ることでしょう。
  聖書の中に現れる神の僕たちは、そのようでした。アブラハムは老年になるまで当時最も祝福されたものとされた子供がいませんでした。モーセは苦難の中で人々に疎まれながら300万もの人々を導かねばなりませんでした。ダビデも多くの敵がいました。詩篇には彼のうめきが満ちています。エレミヤはたった一人で当時の宗教界の全てと戦いました。
 私はキリストの力を受けることよりも、キリストに似るものとなることのほうが優先されるべきだと考えます。そういうとお前はどうなんだという安っぽい反論を受けそうですが、私は何を言われても全く動じません。私は人の評価よりも神の評価を第一にします。私はキリストの僕ですから私を評価するのは主人たるキリストのなさることで、他の誰もすべきではないし、大きなお世話です。
 では、かの有名な伝道者についても私たちは批評すべきではないでしょうか。もし彼がキリストの僕ならすべきではありません。しかし、私が問題にしているのは光の天使に偽装した者に対してです。偽預言者、偽兄弟に対しては警戒を呼びかけることは間違っていません。私は別の方面からその証拠を聞いているのです。しかし、たしかに全ては神のみ前に行ったときにはっきりするでしょう。それまでに、騙されて福音から落ちたり、長い回り道をしないように気をつけてください。