ホームページ・メッセージ060723 小 石 泉
救いと報い
聖書を読むと、十字架の救いは平等ですが、その人の努力や行いへの報いには差があることが分かります。これまであまり話したことがないので、これを取り上げます。
神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。ローマ2:6〜11
良くクリスチャンの形容詞に“敬虔な”という言葉が使われますが、全てのクリスチャンが“敬虔”でもないでしょう。中には「それでもクリスチャンか?」と言われるケースもあります。クリスチャンになるのは優れた人格があるからではなく、
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。マルコ2:17
とあるように、罪あるままで、神の一方的な哀れみによって救われるからです。しかし、救われた後ではその人の生き方によって報いが違います。
わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。Uコリント3:9〜15
救いはここで言う“土台”です。イエス・キリストの贖いによる動かない堅固な土台です。そこにクリスチャンはいわゆるクリスチャンライフを築くわけです。「金、銀、宝石、木、草、または、わら」のクリスチャンライフがあるのです。
救われたら後はどうでも良いのではなく、その人の人生が神の厳格な査定によって明らかにされます。ある人は立派なクリスチャンライフを送り、金のような信仰の豪邸を残すことでしょう。ある人はそこそこ過不足のない木の家を建てるでしょう。しかし、怠慢だったり、消極的だったり、弱かったりしてわらの家のようなクリスチャンライフを建てるものもいるでしょう。それでも主イエスの築かれた土台である救いは救いとして残ります。「その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」。火の中をくぐってきた者とは、何とリアリテイのある表現でしょうか。何となく身につまされますねえ・・・・。
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。マタイ6:2
あなたの努力、善行、忍耐が、今、実を結ばなくても、それで良いのです。この世で報いを受けてしまったら、天国で受ける分が無くなってしまいますから。しかし、これはなかなか難しいですよ。私たちはついついこの世で報いを受けたいものです。信仰の長い歴史を持っている国に行くとこの点は案外理解されているのですが、信仰の新興国に行くと激しくこの世の報いを求める傾向が強いと私は感じます。
人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。マタイ16:27
なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。Uコリント5:10
神の目はふしあなではありません。私たちの全ては見られ、評価されています。良きことに熱心ならそれは天の蔵に収められ、悪しきことに無自覚であるなら天の報酬から減らされます。これは確実なことです。心をわずらわせてはなりません。
旧約聖書の著者も言っています。
神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。
彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。
それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。
彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。
彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る。
彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。
それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない。
彼らは言う、「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と。
見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。
まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。
わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。(中略)
わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。
なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。
あなたが目をさまして彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。
わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。詩篇73:1〜24
特に、この詩篇の中の「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。」という言葉に注意してください。あなたの心そのままではありませんか? 真面目に生きたって空しい。救いがあるなら苦労することはないじゃあないか。いいえ、違います。神の目に全ては明らかで、神の国の記憶装置は完全です。
だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。ヘブル10:35
見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。黙示録22:12
その時、あなたは神様が実に理にかなった方だと言うことと、あなたの受ける報酬の大きさに驚嘆するでしょう。祝福あれ。