メッセージ060716 小 石 泉
神は聖である
ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。イザヤ6:1〜7
これはイザヤという預言者が若者のとき神を見た記録です。しかし、人間が神を見ることは出来ません。パウロは次のように言っています。
神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。Tテモテ6:16
ですからこれは人間になる前のイエス様を見たのだということが出来るでしょう。もちろん、神は三位一体ですから、神とイエスを切り離すことは出来ないのですが、神というペルソナ(存在、位格)は見えない方です。ヨハネも神を見た人はいないといっています。
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。ヨハネ1:16
それにしても、なんと厳(おごそか)な光景でしょうか。天ではこのような光景が毎日繰り広げられているのです。
ここにセラピムという生物(大変失礼な言い方ですが他に言いようがないので)が出てきます。これは天使に似た存在ですが6枚の翼を持っています。そのうちの2枚で顔を覆っています。それは神である御子を直接見ることを恐れているのです。2枚で足を覆っているというのは自分の卑しさを隠しているのでしょう。神の前ではどんな被造物(創られたもの)も卑しいのです。あとの2枚は飛びかけていたというのは神の栄光を表す仕事をしていたのです。セラピムは聖書の中でここだけにしか出てきません。他にケルビムという天使も出てきますが、こちらはかなり出てきて「神が座している」と書かれています。そしてエデンの園を守ったり、会見の幕屋や神殿にその形が描かれています。エゼキエル書にはかなり詳しくその奇妙な形が描かれていたり働きが書かれています。
ケルビムに比べるとセラピムは神の最も御そば近く仕える天使のようで、神の栄光を讃えるためだけに存在しているかのようです。彼らは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」と叫び続けているのです。
彼らが本当に6枚の羽根を持った形をしているのか、それとも比喩的な表現なのかは分かりませんが、イザヤは「見た」と言っているので、やはり本当にこういう形をしているのでしょう。セラピムの仕事は神が聖であることを表すことなのです。
ここで「聖」ということはどういうことなのか考えてみたいのです。
日本には神社という独特の宗教建築があります。だれもその中にどんな神が祭られているのか正確には知りません。しかし、大きな神社に行くとそれなりの厳かさを感じます。しかし、天国の光景はその数千数万数億倍も厳粛なのです。実際、人は神の尊厳を想像することさえ出来ません。それをセラピムは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と叫んで表現しているのです。
ヘブル語ではこの言葉はガドッシュと言って、「分離する」という意味だとコンコーダンスで有名なヤングは言っています。英語ではHolyという言葉が使われます。Holy, holy, holyです。神の尊厳は一切の汚れから分離されていなければなりません。被造物はセラピムでさえ汚れているとしなければならないのです。旧約聖書のレビ記、民数記、申命記にはこの汚れという言葉が無数に出てきます。それはイスラエル民族を聖なる国民とするための戒めでした。ですから「聖」という言葉は同時に「清い」という意味でもあります。しかし、この清さは通常の人間の考えるものとははるかにかけ離れたものです。人間がどんなに努力しても神の清さには到達できません。
しかし、聖書にはこんな要求もあります。
イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、「あなた方の神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」レビ記19:2
このような要求を満たすことが出来る方は、人となられた神の御子だけでしょう。前述の御言葉で、イザヤは聖なる神の尊厳と清さに会ったとき、こう言っています。
「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから。」
これをもうちょっと分かりやすく書き直すとこうなります。
「ああ、大変なことになった、私はきっと死んでしまうだろう。私は汚れた者なのに聖なる神を見てしまったのだから!」
私はイザヤの気持ちが少しだけ理解できます。イザヤに比べたら数万分の一のような経験ですが、私も若いころこれに似た経験をしたことがあります。神学校に入ったころ、友人とチャペルで祈っていると、突然、異様な感覚に捕らわれました。それはほんの少しだけ、神の聖なる臨在が私に迫ってきたのです。私は驚きあわてました。その時、私は、埃のように小さく汚れた自分が、迫ってくる圧倒的な壁に押しつぶされてしまうような恐怖を感じました。私は思わず悲鳴をあげました。「やめてください!もうそれ以上近づかないでください!私は天地から滅びてしまいます!」そんなにはっきりとした言葉にはなりませんでしたが、私は大声で叫んでいました。友人は驚いて「小石、どうしたんだ、落ち着けよ」と鎮めてくれました。近くにいた先輩たちも驚いて見ていました。私はその時から神の臨在という言葉の意味が理解できるようになりました。それは、非常に恐ろしくて、もう、あまり経験したくはありませんが、すばらしい体験でした。あまりに厳粛で生身の人間には耐え難いものです。お前みたいな俗物がそういう経験などするわけがない、という人もいるかもしれませんが、実際にあったことですし、神の前で聖なる事と俗なることが人間の基準で計れるものでしょうか。誰が清いか、誰が汚れているかなど神に代わって人が裁けるものではありません。
神の前では私たち人間などはひとひらの枯葉のように小さなものです。これは私の体験を通しての実感です。しかし、そんな無価値な私たちを神は愛してくださり、一人子を十字架に付けてくださったのです。そしてこう言われます。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。イザヤ43:4
さて、イザヤはあの時、こう言っています。
わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから。
なぜイザヤは自分が汚れているということを「汚れたくちびるの者」と言ったのでしょうか。新約聖書のヤコブ書にこう書かれています。
わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。ヤコブ書3:2
人間の言語神経は脳の中枢神経を支配しているということが近年わかってきました。だからイザヤは自分を「汚れたくちびるの者」と言ったのでしょう。イザヤは自分の全身が汚れていると言ったのです。
彼らはわが民に、聖と俗との区別を教え、汚れたものと、清いものとの区別を示さなければならない。エゼキエル44:23
今回、聖なることを説明することは、非常に難しいと思いました。特に、日本では戦後、尊厳とか厳粛なことを忘れてしまいました。例えば英語にはMajestyと言う言葉があって、ジャック・ヘイフォード先生の賛美にもありますが、今となっては訳せない言葉です。しかし、いつの日か天国に行ったときに、私たちは、まず神の聖なることに驚くおののくでしょう。そんな厳粛で清い神に、本来なら私たちはお会いすることなど出来るはずはないのです。しかし、こう書かれています。
兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。ヘブル書10:19〜22