メッセージ060625 小 石 泉
神は世を愛された
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネによる福音書3:16
これは聖書の中で一番有名な言葉です。神は世を愛されました。そして、そのためにひとり子を与えられました。それは人間が死から解放されて、永遠の命を持つためです。クリスチャンなら、そうですね、感謝ですねというでしょう。しかし、特に日本人は、この言葉を理解するためには沢山の基礎知識が必要です。
まず、神とは何かです。次にひとり子。神に子供がいるのですか? では母親は? そんな質問がありそうです。まず神について学ぶ前に、ひとり子という言葉を説明しましょう。古代社会でひとり子というのは一人の子供という意味ではなく、王位を継承する資格のある王子をあらわす称号です。日本で言えば皇太子に当たります。英語では、
"For God so loved the world that He gave His only begotten Son, that whoever believes in Him should not perish but have everlasting life. となっていて begotten という言葉が使われています。この言葉をひとり子と訳したのは正しかったのか疑問に感じます。言い換えれば、地位を表す言葉です。あまり適当な例ではありませんが、かつて中国で毛沢東のそばに周恩来という有能な人がいました。彼らは実に見事に連携して政治を行っていました。それに似ています。もっとも実際に御子は子であったのです。神から生まれたというより、発生したという方が適切でしょう。この方が地上に来てくださったのです。それは人を罪から救い、本来の地位で持っていた永遠の命を回復するためでした。
エデンの園で神様は人に命じられました。
神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」創世記2:16〜17
ちょっと想像するのも困難なのですが、人が創造されたとき、人は死なないものでした。しかし、神が禁じた木の実を食べたために死ぬものとなりました。木の実をとって食べたという単純なことが罪と呼ばれるようになりました。神の命令に反したからです。ただし、そのために悪魔が誘導したことを忘れてはなりません。今でも悪魔は人間を誘導してあらゆる罪を犯させています。人間を罪に陥れたのは悪魔です。しかし、善悪を知る知識の木を植えたのは神様でした。
ある人が私にこんな質問をしました。「どうして神様はわざわざそんな木を植えたのですか。罪を犯すことを知りながら。植えなければ人は罪を犯さないで済んだではありませんか。」なるほど、そうですね。しかし、ここには深い真理が隠されているのです。どうしてもその木は植えられなければなりませんでした。
どんなにエデンが素晴らしいところでも、神様の意志しか選べないなら、それは束縛された環境です。束縛された環境からは本当の愛は生まれてきません。もし、ある男が女性を愛して誘拐してきて、自分を愛せといっても、そこには愛は生まれてきません。愛は互いがまったく自由なときだけ生まれてくるのです。言い換えれば、相手を拒否することが出来る環境でなければ愛は生まれないのです。このことを理解しないで、自分の愛だけを押し付けることで、なんと多くの悲惨な事件が起こっていることでしょう。それは愛とは呼びません、自己中心、我欲です。自己中心からは愛は生まれません。それは愛の正反対のものです。今の人は愛の性質を知らないと思います。
聖書は「神は愛である」と言っています。ですから神様は人間が自分を自由意志で愛することを求められたのです。なんとナイーブな! 驚くべきことに、神様は愛と言う次元では人間と神とがまったく等しい位置にあることを願ったのです! 相手がまったく自由で、自分を拒絶することが出来る環境を与えたのです。神様は愛の原則に忠実だったのです。
そして人は神の命令に従いませんでした。その結果がどんな悲惨ものであるか、どんな恐ろしいものであるか神様は分かっていました。しかし、愛の原則では人間の自由意志に、神と言えども介入は出来なかったのです。介入してはならなかったのです。愛の関係が持てなくなるからです。そこで神様は別の方法で人間の位置を回復されることに決めていました。それが、御子による身代わりの刑罰です。御子を罪のいけにえとして十字架に付け、それによって人の罪を許す道を作っておられました。そして、「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ことになりました。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
私たちは御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。Tヨハネの手紙4:10〜16
前々回とその前に、神が天地を創造されたこと。その御名は「有る」であることを学びました。今日はその神が愛に満ちた方だと言う事を学んでいます。
しかし、このようなことを全く神を知らない人に語っても、何のことか? 途方もないほら話だというでしょう。そしてそのような方が「愛」だとはあまりも都合の良い話じゃあないかというでしょう。
それでは天地が創造されたのではなく、自然に出来たので、そこには何の意志も計画もなく、感情もない、無機質な物質だけが寄せ集まって出来たというのですか。それとも何か神のようなものが居ても、それが愛ではなく、憎しみや偽りだったとしたらどうでしょうか。憎しみや偽りに秩序というものがあるでしょうか。太陽系の精密な運行は、そのような混乱した力で出来るものでしょうか。
数年前、ハワイのノースショアからオアフ島の裏をドライブしたことがあります。行った人なら分かるのですが、その海の美しさは例えようもありません。私は天地が創造されたとき、すべてはこのように美しかったのだろうと思います。自然は美しさに満ち満ちています。日本にもそのような美しい風景があります。富士山、紅葉の上高地、新緑の尾瀬。世界と宇宙は美しいのです。このような美というものは秩序と計画性と愛によってだけ生まれてくるのです。
神の愛は、天地創造だけではなく、その目的であった人の救いまで計画されていました。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
私たちが神を愛したのではないのです。まず神が私たちを愛してくださったのです。そして御子を十字架と言う極刑にして信じる者の罪を清めて下しました。「私たちは御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。」
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。使徒行伝4:2
さて、このような素晴らしい救いが人々に語られているのに、一向に人々は聞こうとしないし、最近では御子をあざける映画や小説があふれています。それはあのエデンの園にやってきた悪魔の仕業です。悪魔は偽りと憎しみに満ちています。真実も愛もありません。悪魔には人間の罪のために自分を犠牲にするという、御子の行動が理解できないのです。彼には愛というものが理解できません。あるのは虚栄と我欲だけです。ですからあらゆる方法で救いの道を分かりにくくして人々を遠ざけようとするのです。
そのような悪魔の業を見破るには、創造の美のような美に対する感覚が必要です。一見美しいのではなく、真実に美しいかどうかです。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。伝道の書3:11