メッセージ060528 小 石 泉
見える奇跡と見えない奇跡
イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。マタイ9:1〜8
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Uコリント4:18
「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらがやさしいと思いますか? 私たちにとってはどちらも難しいのですが、イエス様にとっては「起きて歩け」というほうがやさしいのです。罪が赦されるということは神と和解することで、さらには永遠の命をいただくからです。病や障害の癒しは、たとえ癒されたとしてもいずれは死にます。病の癒しはその場で見える奇跡です。人々は納得するでしょう。しかし、罪の赦しは見えないので人々は納得しないのです。イエス様にとって罪を赦すことは病の癒しも含めた総合的な救いの宣言でした。しかし、頭のかたくなな人々にはその場で目に見える奇跡のほうが理解できるので、やむを得ず、癒して見せたのです。
そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。マタイ12:38〜40
ユダヤ人たちはしるしを求めました。しるしとは目に見える奇跡です。しかし、イエス様は自分の復活を預言しています。それこそすべての人間の永遠の命への初穂だからです。イエス様はしるしを求める時代を「悪い時代」だといっています。イエス様は「どうしてあなた方は目に見える浅薄な奇跡を求めるのですか。もっと高貴な永遠の命、神の愛、神との交わりを求めなさい」と言いたかったのです。
私たちの所属するペンテコスト派は「神の表れの神学」を標榜しています。神は今も生きておられて実際の生活に表れたもうというのです。それは正しいことです。この考えは元々はA.B.シンプソンというアメリカの牧師から始まりました。彼はペンテコスト派の前からこの事を主張していました。その後、聖霊の顕著な表れがあり、ペンテコスト派が生まれました。しかし、最近、私はあまりにもしるしや奇跡だけを求め過ぎていると思います。もっと、深い真理を求めなければなりません。
最近持たれた聖会でも倒すことや病の癒しが激しく叫ばれました。私には人を倒す意味が判りません。そんなことは聖書に書かれていません。倒すことによって何がどうなるのでしょうか。私は意味もなく人を倒す行為は非常に失礼なことだと思います。無作法です。そして、次の御言葉が強調されました。
ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。使徒の働き5:15〜16
ここから「全ての人が癒される」と講師は叫びました。しかし、私は会衆の中に、車椅子の人や松葉杖の人がいることが気になってなりませんでした。案の定、彼らは車椅子や松葉杖のままで集会を後にしました。私は「全ての人が癒される」というなら、彼らは癒されるべきだったと思います。そうでなければ、一般社会の通念では、そういう集会はインチキです。また、がんの青年が祈られて、「あなたは癒された」と言われたなら、その後、15日目に死んで、その同じ講壇で彼のお葬式が行われてはならないと思います。全ての人が癒されてから、全ての人が癒されたというべきです。癒されなかったら癒されなかった人もいるというべきです。私は質問したい。私はおかしいですか? 私は不信仰ですか?
病が癒されることはそんなに大切なことでしょうか。星野富弘さんは身体が不自由だからあんなに大きな証が出来るのではないですか。いまだに世界中で歌われる多くの賛美歌を作ったファニー・J・クロスビーは、生涯盲目でしたが癒されることはありませんでした。
見える奇跡だけがなぜこんなにも優先されるのでしょうか。キャサリン・クールマンの墓には彼女の口癖だった言葉、I believe in miracle because I believe in God.が書かれています。「 私は奇跡を信じる、なぜなら神を信じているから。」しかし、神様は奇跡を行うから信じられるのですか。宇宙万物の創造者は人間社会の奇術師のような立場を喜ばれるでしょうか。
私はどんな奇跡よりも、罪からの救いのほうが奇跡だと思います。宇宙の創造のほうがはるかに、はるかに奇跡だと思います。尊い神のひとり子が、神の位を捨てて地に下り、罪人のために十字架に掛かられた事のほうが、数千、数万、数億倍も奇跡だと思います。そして死よりよみがえられたことも人間の創造を絶する奇跡です。
主の聖徒たちの死は主の目に尊い。詩篇116:15
クリスチャンの死は永遠の命に入る喜びの日です。神様が癒しに失敗されたのではありません。ある人が「これはサタンの攻撃だ」といいました。私はびっくりして「あの兄弟はサタンに殺されたのですか?」と聞きました。私の考えでは神が最も良い時に、彼を召されたのです。今、彼は主の御許に安らかに憩いを得ておられることでしょう。
あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」詩篇90:3
イエスさまはしばしば癒された人に黙っているようにと命じています。
イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」マタイ8:1〜4
病の癒しは深い同情と愛によって為されるべきで、今のように声高に騒ぎ立てるものではありません。あまりにもあざとく、あさましく、卑しいです。私は信仰による癒しを信じていますし、実際に癒された経験も、私を通して主が癒したこともありますが、それをおおげさに宣伝することはしません。イエス様の言われるとおりにします。
私は彼らが善意であり、純粋であり、熱心なことは認めますが、何かが狂っています。ボタンの掛け違いのような間違いが起きています。そしてこれはどこか違った道に導く分岐点になることを心配しています。残念なことにこういう間違いは多くの人を引き付けるものです。人は目に見えるものを真っ先に追い求めるからです。
そしてこう言う事を言うなといわれるなら、神様は私たちが失敗を覆い隠すような方法で保護される必要はありません。神は真実であり、巨大であり、強力であり、間違いのないお方です。間違っているのは私たち人間の方です。しかも、こんな間違いをするのはクリスチャンのほんの一握りであることを、中にいる人々は気がついていません。
静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。詩篇46:10(口語訳)