ホームページ・メッセージ060521            小 石  泉

完全に失望しなさい


 先日、車でラジオを聴いていたら、小堺一樹という人が「キリスト教は厳しい宗教だ。許さない宗教だ。目で見ただけで罪なんだから。」というようなことを言っていました。私は彼のホームページを探して、違うということを書いて送ったのですが、無視されました。
 これはしかし、小堺さんだけではなく日本人一般の受け取り方でしょう。

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。マタイ5:27〜30

 確かにこう言われれば、そう思うのも当然です。しかし、実はイエス様はここで表面的な正しさを見せびらかして、自分を義とする当時の律法学者やパリサイ人に対して、神様が正しいとするのは心の中からであって、表面的なものではないと言ったのです。人間の罪深さは深刻なものであって、表面をいくら飾っても決して清くなるものではないと言っておられるのです。だからこそ全く罪のない神の小羊の贖いによってだけ救われるとなるのです。イエス様は人間には自分を正しくする能力はないということを認めさせようとしているのです。自分に絶望して神の救いを待ちなさいと言っておられるのです。
 私はクリスチャンホームに育って、多くのクリスチャンを見てきました。そして、非常に多くの方々が、キリストの福音を間違って受け止めていると感じてきました。キリスト教とは許しの宗教です。人の罪は許されなければ、到底、自分では償いきれないものなのです。ところが多くの場合、少しばかりの努力と自己規制で自分が清くなった、正しくなったと錯覚しています。確かに聖書には清くあれ、完全な者であれという言葉があります。

それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイ5:48

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。Tヨハネ3:3

 完全な者、清い者となるのは良いのですが、問題はどこからそこに到達するかという点です。自分の中に少しでも頼むものがあって、そこに加えようとするならそれは間違っています。クリスチャンでない真面目な人々に伝道していて、いつもそこで壁にぶつかります。彼らは自分の清さ、正しさを認めていて、そこにキリスト教を付け加えようとするのです。これが、イエス様が徹底的に人間の内面まで罪に定めた理由です。まず、完全な、徹底的な失望、自己否定が無ければなりません。人の義は神の義を薄めてしまいます。
その上で神から与えられる義、清さがあるのです。これは最善のクリスチャンといわれている人々でも陥りやすい間違いです。人間は自分に完全に絶望することが怖いのです。人間の心は私たちが考えている以上に悪いものです。

心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。エレミヤ17:9

 そんな、実も蓋もないと言われるかも知れませんが、正にそれこそイエス様があの山上の垂訓で伝えたかったことなのです。さらに次のたとえ話を読んでください。

それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。マタイ18:23〜35

 王と僕の決算が行われたというのです。すると1万タラントの負債のある者が連れてこられました。この1万タラントという金額に注意してください。1タラントは6000デナリです。1デナリは労働者の1日の賃金に当たりますから、良くて1万円です。そうすると1万タラントは6000万デナリ。約6000億円です! 一方100デナリは100万円です。
 私たちの神への負債は6000億円にも相当するとイエス様はおっしゃったのです。これは到底返すことの出来ない金額です。神の正しさはこのように人間の正しさと比較にならないのです。ですから私たちの罪深さは自分では償い得ないのです。
 そういうわけで神の前での正しさというのは、全く自分に失望したときだけ与えられるのです。私は自分に失望しなかったクリスチャンを信じません。

もしらい病が広く皮に出て、そのらい病が、その患者の皮を頭から足まで、ことごとくおおい、祭司の見るところすべてに及んでおれば、祭司はこれを見、もしらい病がその身をことごとくおおっておれば、その患者を清い者としなければならない。それはことごとく白く変ったから、彼は清い者である。レビ13:12〜13

 ここに言うらい病とは今の病名ではないと思いますが、とにかく当時、らい病はひどく恐れられ嫌われました。ところが聖書は不思議なことを言っています。らい病が全身をことごとく覆ったらその人は清くなるのです。ほんのちょっとでも清いところ、生来の肉の部分が残っていたら彼は汚れているのです。
 これは実に興味深いことです。私たちが自分の正しさに少しでも頼んでいたら、汚れているのです。全身がらい病のように、全く正しいことがないと認めるなら、私たちは清いもの正しいものとなるのです。
 もし私たちが少しでも自分の清さで神に近づこうとするなら、キリストの十字架は無駄になります。あるいは精進したり、刻苦奮闘して自分を清め、正しくしようとしても、それによって救われることはないのです。もちろんそうすることは良いことかもしれませんが、それには完全な自己否定、失望が前提となります。そうでなければそれは自己満足、高慢となります。こうして自分に完全に失望したとき初めてキリストの十字架の意味が判ってきます。完全な義は完全な自己否定からだけ生まれてくるのです。