ホームページ・メッセージ060514            小 石  泉

また会う日まで


99歳の佐藤姉告別式メッセージより

 私は今日、黒いネクタイをすることに大変抵抗がありました。クリスチャンにとって葬式は喜びの日であって、悲しみの日ではないからです。しかし、一般的には非常識になるので黒いネクタイで参りました。クリスチャンは永遠の命を信じています。

 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。ヨハネ11:25〜26

 キリストはこのように言われました。クリスチャンはこの言葉を文字通り信じています。クリスチャンはいつまでも死なないのです。もちろんこの体は無くなりますが、魂は永遠に神の国に住むと信じているのです。

 ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。伝道の書12:7

 主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。詩篇90:1〜:3

 ですから私たちは佐藤姉妹ともう一度会えると信じています。

 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。Uコリント4:16〜5:4

 見えるもの、この体は無くなりますが、見えないもの、魂、霊は永遠に生きるのです。聖パウロは、この体のことを地上の幕屋と言っています。幕屋とはテントのことです。テントは仮の住まいです。しかし、天にあるのは建物、永遠の家だというのです。この地上のテントは傷ついたり、病に侵されたり、苦しんだり、悩んだりして、結局は必ず滅びてしまうものです。しかし、永遠の建物は失われない命にあふれているのです。そんなことは本当でしょうか。聖パウロこのようにも言っています。

 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
Tコリント15:19〜22

 もしクリスチャンの信仰が単なる望みであって、実際にはないものであるなら、クリスチャンは「すべての人の中で最もあわれむべき存在」だというのです。
 かつてある人と議論しました。彼は「天国なんてない。魂が永遠に続くなんてありえない」といいました。私は聞きました「あなたは死んで、それを見てきたのですか」「いや、見たわけではない」「では、少なくともその確率はフィフティ、フイフティですね」というと、しぶしぶ認めました。「50%の確率は相当な確率ですよ、世の婦人たちは雨が降る確率が50%だったら、その日は洗濯物を干さないでしょう」。

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。Tコリント15:20

 キリストは初穂です。麦でも米でも初穂が実れば次々と穂は実るのです。同じように私たちもよみがえるのです。

 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
 死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
Tコリント15:50〜58

 「肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。」実に明快です。この肉体は霊の世界には行けないのです。霊の世界には霊の世界の体が必要です。

すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。Tコリント15:39〜44

 今、佐藤姉妹は霊の体となって、神の御前に出ておられることでしょう。姉妹は70歳のときに脳梗塞で倒れ、半身が不自由になりました。その後、教会に来られて信仰を受け入れました。お茶の先生で、礼儀正しい毅然とした老婦人でした。「教会でお茶の世界に欠けているものを見つけました」といっておられました。ある時、次の詩篇を学ぶと大変喜ばれました。

わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、
どこから来るであろうか。
わが助けは、天と地を造られた主から来る。
主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。
あなたを守る者はまどろむことがない。
見よ、イスラエルを守る者は
まどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る者、
主はあなたの右の手をおおう陰である。
昼は太陽があなたを撃つことなく、
夜は月があなたを撃つことはない。
主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、
またあなたの命を守られる。
主は今からとこしえに至るまで、
あなたの出ると入るとを守られるであろう。
詩篇121編

 「そうですか、神様はまどろむこともなく眠ることもないのですか」姉妹は神様をしっかりと捕らえておられました。仏教については「それはまったく違うものですよ」と常々言っておられました。
 90を過ぎたころ、「佐藤姉妹はぼけないのですね」というと「はい、ぼけるには年を取りすぎました」といって居られました。姉妹は教会員の希望でした。「私もあんな風に年を取りたい」とみんなが言っていました。今は幼子のように主の御手に抱かれていることでしょう。感謝なことです。

  そのままに ありのままに そのままに  佐藤姉妹の文集「花は野にあるように」より