ホームページ・メッセージ060430            小 石  泉

男と女


主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。創世記2:7〜8

 神様が世界を創られ、その創造の完成に人間を創られました。人間は土から創造されました。だからアダマ(土)から出来たからアダムと名づけられました。そしてエデンとはヤングという人のコンコーダンス(聖書語句辞典)によれば「喜び」それも「大いなる喜び」delightという意味の場所に置かれました。人間の最初の住まいが「喜び」という地名だったとは何と幸いなことでしょう。

また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。2:18〜24

 初め男は一人でした。神様は女をアダムのあばら骨から創ったのです。神様はアダムを深く眠らせて最初の外科手術を行いました。これは最初の麻酔手術ですね。もっとも私は前からこのあばら骨は染色体のことではないかと思っていました。子供のころ染色体の絵を見ると何となくあばら骨に見えたのと、男が女より一本少ないというからです。その後、染色体はDNAと呼ばれるようになり、ますますそうではないかと思っています。
 神様は女を男の「助け手」として創られたのですが、この「助け手」という言葉は原語のヘブル語では「援軍」という意味です。最近は援軍ではなくて、女性が本隊みたいになっているケースが多々ありますがね・・・。
 「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう。」これは人類最初の愛の告白でしょう。なんと熱烈な愛であることか。アダムはここで文法の遊びをしています。ここに言う男はイシュといいますが女はその語尾を女性変化してイシャーと呼んだのです。アダムはひとりだったのに、もう言語を持っていて、いろいろな動物に名をつけるほどでした。言語を持つというのは人間の特性ですから、人間は類人猿から進化したのではなく、初めから人間だったのです。それにしても「肉の肉、骨の骨」とは、よほどアダムはうれしかったのでしょうね。
 女性のエバというのは命を表すハバから来たといわれています。女性が命を生み出すのはすごいことなのですね。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。1:27〜28

 人間は神のかたち、イメージ、姿、に創造されました。これは私にとって大きな謎です。人間が神のかたちとはどういう意味なのだろうか。神にはかたちがあるのでしょうか。英語の場合イメージと訳されていますが、日本人が考えるイメージと英語のイメージは違います。イメージは第一義的には「像」を表す言葉なのです。

神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。Tテモテ6:16

 こういう御言葉と、自分のかたちに人を創造されたという言葉が私には結びつかないのです。ただ、次の言葉が少しだけヒントを与えてくれます。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、のれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。ピリピ2:6〜11

 キリストが神の真のかたちでした。そして人になられました。人も神のかたちだったからそれは当然だった、あるいは容易だったのかもしれません。

聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。Tコリント15:45

 キリストは最後のアダムと呼ばれていますが、この場合のアダムはエバのためにあばら骨を取られたアダムではなく創られたときのアダムという意味に違いありません。ひとりだったアダムです。援軍を必要としないアダムです。キリストは「完全な人」だったのです。イエス様がマグダラのマリヤと結婚したなどという下劣な推測は、サタンの霊感を受けた者でなければ思いつかないことです。
 聖書は夫と妻に対して次のような教えを与えています。

妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。Tコリント5:22〜33

 妻は夫に仕え、夫は妻をキリストが自分の命に換えて愛されたように愛しなさい。これが天地を創造され、男と女を創造された神の定められた夫婦の姿です。今時の女性はこんなことを言われたら冗談じゃあないわよと反発しそうですね。しかし、夫に対する定めのほうが厳しいと思いませんか。男は命がけなのですから。
 さらにこういう戒めもあります。

男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女は、また男の光栄である。なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。11:7〜12

 男は神のかたちであり栄光である。女が男のために造られたのである。そうは言いながら、パウロ先生は「女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。」と言い、女性と男性の価値には変わりはないことを言っています。要は順序なのです。ライオンのたてがみは何の価値があるでしょうか。雄鶏のとさかは何か価値があるでしょうか。取り立てて役に立つものではありません。しかし、いかにも雄々しく権威ある飾りではありませんか。そのように人間の男性も雄々しく強いことに価値があるのです。女性の価値は優しさでしょう。赤ちゃんを抱く母親の代わりは男性には絶対に出来ませんから。
 男と女、その二つの性があること自体、不思議ですね。神様のご計画なのでしょうね。

*昨日、私は私の息子の結婚式をしました。感謝でした。