メッセージ060423             小 石  泉

いつまでも変わらない


イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。ヘブル13:8(新改訳)

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。(口語訳)

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(新共同訳)

Jesus Christ is the same yesterday, today, and forever.(NKJV)

上の訳のどれが好きですか? 私は口語訳が好きです。「変わらない」というのと「同じです」というのではちょっとニューアンスが違いますね。もっとも英語の場合はsameですから「同じ」でいいわけです。まあ文学的なセンスの問題ですがね。
 ところで「いつまでも変わらない」という言葉は私には不思議に思えます。変わらないことがどういう価値があるのでしょうか。なぜ、わざわざ「変わらない」ということを言わなければならなかったのでしょうか。変わらないからどうだというのでしょうか。
 ここでヘブル書の著者(はっきりしないが、恐らくパウロ)は何を言いたかったのでしょうか。それは次の御言葉に明らかです。

さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。13:9

 もうすでにこの時からキリスト教は激しい攻撃にさらされていました。

私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。いや、あなたがたはこらえているのです。というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。Uコリント11:1〜4

 「異なった福音」とは原語でヘテロス・ユーアンゲリオンといいます。ヘテロスは全く違うという意味で、その反対は近いという意味のパラです。キリスト教はその誕生から現在に至るまで惑わしと偽りによって常に攻撃されてきました。それは真理であることの証明でもあります。サタンは常に真理を憎むのです。
 最近、世間では「ダヴィンチコード」「ユダの福音書」などといった偽りの教えが氾濫しています。私は馬鹿馬鹿しいので読む気にもなれません。こういう偽りは今までにも数え切れないほど多く出てきては消えていったのです。実は私はこのような偽りが出てきた事をむしろ喜んでいます。クリスチャンがサタンの攻撃に目覚めることが期待されるからです。本当のクリスチャンはこういう明白な偽りには騙されることはありません。もし騙されるならばその人は元々クリスチャンではないのです。私はむしろ惑わしを気にします。聖霊の器と称して怪しげな方法で多くのクリスチャンを騙す人々が沢山います。そしてこういう惑わしにはクリスチャンは弱いですね。
 キリストには変化というものはありません。永遠に真理です。真理は永遠です。今そこにあったのに、もう違ったところにあるというようなものではありません。それは父なる神と同じ神だから当然です。

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。ヤコブ1:17(新改訳)

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。(口語訳)

 神は永遠に変わりません。初めから同じです。
キリストの血の贖いは永遠に変わりません。
キリストが「あなたの罪は許された」と言われたなら、その許しは永遠に変わりません。キリストが

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1:14 

ならそれは今も、さらに永遠にそのままです。
 今、政治の世界では改革が叫ばれています。ということは現状が不完全なのです。人間は何千年も生きてきたのに、未だに完全な政治形態を持ちません。それはいつも不安定で変わり続けています。政治だけではなくあらゆるものが不安定で変わり続けています。この世の中に不変なものはありません。武田信玄の旗印、風林火山の「動かざること山の如し」という山も地震や噴火によって動き、変形します。人の交わりも時には変わります。それが無数の小説やドラマを生み出しています。
 長い間、日本人はすべてのことが不安定ではかないものだという観念を持ってきました。例えば平家物語の冒頭にそれが表れています。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」祇園精舎はインドにあった広大な寺院です。そこの鐘も、何もかも不変のものはないという響きがあるということです。沙羅双樹というのは夏椿とも言われ、美しい花を咲かせますが数日で落ちてしまいます。この辺のお宅に庭によく植えられています。栄華を極めてもみな滅びてしまうというのです。また方丈記にも「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくにごとし。」とあります。
うたかたというのは泡のことです。人間もその作り出す文化文明も泡のようにはかないものだというのです。これらの思想は旧約聖書の伝道の書とそっくりといえます。

ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。 伝道の書1:1〜18(口語訳)

 この著者のソロモンもこの世の栄誉栄華ははかないものだと言っています。全ては変化し衰え崩壊します。それに比べて、イエスキリストは「いつもでも変わらない」のです。
 私も初老という時期を迎え、人間の移ろいと言う事を思わずには居られません。今まで何とも思わないでやってきたことが出来ない。どうしても人の名前や物事の名前が思い出せない。階段を登るのが負担に感じる。こうして人間は弱り、衰えていくのかなあと思います。先日もスーパーで三歳ぐらいの可愛らしい女の子がいたので微笑みかけるとまるで花のような美しい笑顔で笑い返してくれました。あまりにも可愛らしいので、思わず「可愛いね」と言ってしまいました。しかし、その後で、見ず知らずのおじさんにあんな美しい笑顔で返してくれるあの子も、間もなく変わってしまうんだろうなと思うと人間の成長が恨めしくなりました・・・・変かな?
 いつまでも同じ。変わらない。キリストはいつまでも神の子であり、私たちの救い主であり、癒し主であり、王の王、主の主です。アーメン主イエスよ来たりませ。