ホームページ・メッセージ060416            小 石  泉

よ み が え り















さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。マタイ28:1〜8

「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。」
「イエスは死人の中からよみがえられた。」
 これが人類が初めて耳にした驚くべき言葉です。キリストはよみがえられました! 
キリストは死に勝利されました!

死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。Tコリント15:55

 もともと人間は神に創造されたときは死なないものだったのです。しかし、神の禁じられた善悪を知る木の実を食べたために死ぬものとなりました。しかし、もう死はなくなりました。死は敗北しました。キリストの十字架の犠牲による満ち溢れる愛は、信じるもの全てに永遠の命を与えるものとなりました。キリストの死により、私たちの罪は消え去り、罪をもたらしていたのろいはなくなったので信じるものは死なないものとなったのです。

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。ヨハネ11:25〜26

 あなたはこれを信じますか? あなたがキリストを信じるなら、たとい死んでも生きます。また、生きていて、キリストを信じるなら、いつまでも死なないのです。そういうと それならなんでキリストは今地上に居ないのか? という単純な質問を受けそうです。命というものはこの地上だけにあるものではありません。宇宙を越えた霊的な世界にも命はあります。宇宙ですら、人間はそのほとんどを知らないのです。まして霊の世界については何も知りません。そのことを認めてもっと謙虚になるべきではありませんか。
 よみがえりという言葉は日本語では「黄泉帰り」という意味だそうです。なるほどね。
そうだとすると、キリストの復活によみがえりという言葉を当てはめたのは奇妙に正しかったのです。確かに主イエスは黄泉から帰られました。もっとも聖書の言う黄泉と日本語の黄泉とが同じものかどうか疑問ですが。

こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。Tペテロ3:19〜22

 キリストは復活の後に黄泉に下り、福音を伝えられました。そして黄泉から帰られたのです。しかし、キリストの復活はそれだけではありません。この世のよみがえりは死からの一時的な帰還で、必ずもう一度死にますが、キリストの場合は、もう二度と死ぬことはありません。そしてキリストを信じるものも同じです。

あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。詩篇16:10

 この陰府は黄泉と同じ言葉です。ここに言う聖者はキリストのことですが、同じように私たちも墓とは関係ないのです。クリスチャンの墓は永遠の住まいではなく、便宜的に骨を置いて置く場所です。本当はなくてもいいのです。しかし、そこら辺に捨てるわけにも行きませんしね。
 私は数年前、キリストの墓の前に行きました。カトリックのキリストの墓は建物の中にあって、失礼ながら、何やら、縁日の夜店のように、十字架の場所とお墓とが都合よく、にぎやかに並んでいました。ろうそくと、信者の方の焚く香と、墓の前にキリストを寝かせたというベッドのような石の上に撒く香水の匂いで満ちていました。しかし、この墓は聖書の記述とは違います。どう理由をつけようと城壁の中になるのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 一方、近年発見された城壁の外の、イギリスの将軍ゴルドンが、絶対にここだと言った、
それこそどくろの形をした丘(ゴルドンのゴルゴタ)にほど近い、石切り場の崖に掘られた作りかけの墓こそそこです。そこは園の墓といわれていて、花は咲き鳥が歌う、清楚な庭の前にあります。それは聖書の記述どおりの条件が満たされています。そこは裕福なアリマタヤのヨセフの持ち物でした。その墓の上に、こう書かれています「その方はここには居られない、よみがえられたのだ」。
 今から2000年前に弟子やマグダラのマリヤが、ここに居たのです。そして天使の言う声を聞きました。それ以来、この墓は空です。一度も誰も葬られたことはなかったでしょう。あなたがキリストの復活を信じられないなら、この墓の前で考えてみてください。キリストの死体はどこに行ったのかと。あの日、ユダヤの祭司たちが言ったように。弟子たちがどこかに隠してしまったのでしょうか。もしそうなら、弟子たちは自ら作ったうそのために殉教したのですか? 嘘を作った人々が、世界で最も気高い信仰を宣伝したのですか?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 キリストが、もし、復活しなかったなら、キリストは世界史で最も大きな嘘をついたのです。キリスト教とは嘘の土台に建てられた宗教です。しかし、実際に復活したのなら、それは人間の最も偉大な希望です。

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。Tコリント15:20

 キリストはあなたのために十字架に掛かり、あなたのために復活しました。