ホームページ・メッセージ060409             小 石  泉

苦しまない人々


 最近起こる異常な犯罪を見ていると、私は“苦しみを、苦しまない”人が多くなったなあと思います。社会一般に苦しみを受けることを拒絶することが当たり前のようになっています。苦しむことは自分にはあってはならないと思っているようです。さまざまなメディア、本でもテレビでも映画でも、苦しむことを避けて生きることを教えてくれますが、苦しむことの価値を教えてくれません。その結果、自分が何か苦しみに会うと、耐え忍ぶということをしないで、人にぶつけて、幼児を投げ落としたり、乳児にナイフを突き刺して殺したり、自分自身を殺したりして解決しようとするのです。
 人間にとって苦しみを耐え忍ぶということは非常に重要なことです。人間の本当の成熟は苦しみを通してだけ与えられるものです。人は苦しみの鋤により深く耕された時だけ、深く気高い人格が備わってくるのです。苦難を経験したことのない人を誰も信頼しません。しかし、近頃の風潮は軽薄、浅薄、その場かぎりという価値観が大勢を占めていませんか。
 聖書の中でこの苦しみにあった人が居ます。

ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。ヨブ1:1

 ヨブは裕福な上に敬虔で、非の打ち所のない、立派な人物でした。彼は自分の子供たちも神を信じ敬虔な生き方をするように教えるという理想の父親でもありました。しかし、長い話を短くすれば、ある日突然、天災と人災によって全ての財産と子供を失いました。その上、自分自身も皮膚病に犯され、みすぼらしい乞食のような状態になりました。そこに昔からの親友3人が尋ねてきたのです。彼らはヨブのあまりの変わりように驚き果てて、これは何かヨブが神に背く罪を犯したのだろうと推測してヨブに悔い改めることを勧めます。しかし、ヨブにしてみれば、全くそんな心当たりが無く、違うと言い張ります。その長い問答がヨブ記の大半を占めています。ヨブ記は救いようのない絶望の中から、神と人との間には仲介者が必要だという、すばらしい思想が形作られる過程が示されている非常に興味深い書物です。しかし、今回はそこには焦点を置きません。
 最終的に神はヨブの信仰に苦しみというスパイスを加えて、完全なものに仕上げるのです。苦しみの無い信仰は裏づけの無い薄っぺらな紙のようなものです。苦しみだけが、信仰に厚みと鋭さと広さとを与えるのです。しかし、私たちはこのような精製の過程を避けて通りたいのです。私自身ももちろん含めて。

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。ローマ5:1〜5

 「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す。」神様はヨブにこのような人格を与えるためにあえてサタンの手にゆだね、極限までの苦しみを与えました。この苦難を通ったヨブは輝くばかりの人間となりました。彼の財産も子供たちも以前の二倍になりました。
一般の人でも苦しみを通った人は立派な人格を備えている場合が多くありますが、クリスチャンはなおさら苦しみを通らなければなりません。病の癒し、繁栄、名声。ヤベツのように正直に求めよう、と言うのも間違っては居ません。しかし、苦しみでしか獲得できない品性は要りませんというなら、あなたは本当の神の僕とはなれません。私はいつもバプテスマのヨハネを思います。イエス様は彼のことを、

まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。マタイ11:11

と言っています。女から生まれた者の中で、というのですから、それまで生まれた全ての人に勝った偉大な人だったのです。しかし、彼の最後は少女の踊りの褒美として首を切られるというものでした。一体、こんなことを求める人が居るでしょうか。誰が彼を成功した人と思ったでしょうか。

弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。使徒14:22

あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。ピリピ1:29

 この御言葉のとおりに、弟子たちもほとんどが殉教しました。それは彼らの主御自身が苦しみに会われたからです。

神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。ヘブル2:10

キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、5:18
むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
Tペテロ4:13

 インドの伝道者スワミ・ヴィヴェ・カーナンダはネパールに伝道に行き、そこで殉教しました。その死刑は極度に恐ろしいものでした。生皮に包まれ水を掛けられると生皮は収縮します。その時、体中の骨は折れてしまいます。しかし、彼はその間中、死ぬまで賛美を歌い続けたというのです。あまりのことに人々は、この人は何者だろうと心臓を取り出して見たそうです。彼は苦しみの中で喜びおどる者でした。
 最近、アフガニスタンでクリスチャンになって帰国した難民に死刑の判決が下りました。しかし、国際的な非難の中、カルザイ首相は彼を国外に追放しました。このようにイスラム教はキリスト教になると死をもって報われます。このイスラム圏を通ってシルク道路をさかのぼるという新しい伝道のプロジェクトが中国人のクリスチャンを中心にフィリッピンで準備されています。インドからパキスタン、モンゴル、ネパール、ウズベキスタン、アフガニスタン、イラン、イラク、ヨルダン、イスラエル、そして福音の原点エルサレムまで行こうという計画です。多くの献身者が起こされていますが、彼らはもちろん殉教を覚悟しています。そして、今年、10月8〜11日まで日本でもこの宣教大会が開かれます。私は最近のナントカ大会カントカクルセードには参加しませんが、この大会には参加しようと決めています。私自身は殉教する決意はまだ出来ていませんが。
 さて、そんな大それたことではなく、あなたも苦しみの中にあるかもしれません。人間関係ですか? 金銭的なことですか? 失望し落胆していますか? 感謝しましょう!!あなたは苦しみを苦しむことが出来るのです。「なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。」
 あなたは、これまで、苦しみから逃げることばかり教えられていませんでしたか。もちろん主の祈りでも「試みに会わせないで悪より救いだしたまえ」とありますが、それがあなたに必要なら、神様はあなたをもっと練達した重厚な信仰者とするために苦しみを与えるでしょう。あなたがそれを受け取ることが出来る人だと神様が計られたら、そうなるでしょう。
 これからますます、苦しみを逃れるために他人を犠牲にする人々が増えるように思います。私たちの周りにそのような犠牲者が出ないように祈るのもあなたの仕事です。地の塩、世の光なら、せめてあなたの周りだけでも塩味で守り、光を照らしてください。あなた自身も苦しみを喜ぶものとなるように。