メッセージ060326 小 石 泉
私は真理を知っている
先週のメッセージを読んだ仏教の方から、真面目なお便りをいただきました。それは、私が「仏教はあきらめの宗教だ」と書いたことに対する真摯な反論でした。なかなか難しかったのですが、要するに「仏教とは真理を求める道であり、その道を求め続けることが救いである」ということのようでした。なるほど、私の言い方は正しくなかったかもしれません。仏教の方々の中には、懸命に道を求め続ける、真面目で真剣で苦難をも甘受する雄々しい方がいるかもしれません。
しかし、道を求め続けることが救いであるという考えには大きな誤りがあると私は思います。りんごを食べたくなって買いに行くとしましょう。しかし、肝心のりんごを買って食べるのではなく、買いに行く道中が尊いというのは詭弁ではありませんか。ところが、恐らくこの論理は、決して受け入れられることはないでしょう。なぜなら、仏教といわず神道といわず、日本の宗教には真理を獲得するという前提はないからです。真理は永遠に獲得出来ない、はるかかなたの宝だと信じられているからです。
私は真理を知っています。真理を確実に獲得しています。そういうと「なんと傲慢なことか」と言われそうです。前にあるお坊さんと話したとき「真理なんて判るわけがない、我々人間は永遠に迷い続けるものだよ」と言われたことがありますから。
私がそう言うのは次の言葉を信じているからです。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6
ここでイエスは、私は真理を知っているとか、その探求者であると言っているのではありません。私自身が真理であるといっているのです。イエス=真理です。私はイエス・キリストを信じています。だから真理を知っているのです。
イエス・キリストとは真理が人となって現れた方です。言い換えれば真理は人となったのです。真理を具現化したもの、真理という本来は無形の(形而上の)ものが、イエスという実在の姿をとったのです。これがなかなか理解されません。
私が日本航空にいたとき、外国航空会社の航空券で乗った方の料金を計算してその会社に請求する仕事をしていました。Billingといいました。そんな中に、時々Queens Baggageと言う航空券が入っていることがありました。これはイギリス女王の手紙や品物でした。女王様の手紙はFirst Classの座席を取り、その料金を払います。決して荷物室に放り込まれることはないのです。人間の扱いを受けるのです。真理も究極において人に成らなければならないのです。人になった真理だけが人に必要な真理です。
世界の宗教の開祖といわれる人々は「自分は真理の探求者だ」と言ったかもしれませんが、「自分が真理だ」と言った人は皆無だと思います。そんなことは人間の想像を絶する話です。よほど傲慢か狂気の沙汰でしょう。さもなければ本当に真理そのものなのです。ちょっと飛躍すると思われるかもしれませんが、真理という言葉を、神と置き換えてみましょう。神は真理でなければならないからです。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。ヨハネ1:1〜5
ここで「ことば」と訳されている言葉はギリシャ語でロゴスといいますが、ロゴスは真理と言い換えても間違いではないと思います。真理は神とともにあり、真理は神であったのです。そして真理は人の形を取られました。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。1:11〜14
私はいつも不思議でなりません。どうしてこんなにはっきりしたことが判らないのだろうか。見えないのだろうか。私は多くの真面目で真摯で心優しいクリスチャンでない方々を知っています。しかし、彼や彼女は神に関する事柄には無関心か、あるいは自分とは関係ないものと思っています。悲しいことです。欧米の場合だとクリスチャンでないということは、ある種の反抗です。最近ではキリスト教の基礎が失われつつありますから、条件は日本と同じようになってきていますが、それでも彼らが「神は居ない」というとき、反抗心が必要です。しかし、日本人が同じ事を言うときにはごく自然で特別反抗心も必要ないのです。
さらに言いますが、私は真理の反対のものを知っています。それは闇の力、罪と偽りの支配者サタンです。これを知らなければ片面だけ焼いたパンのようです。一般の人もクリスチャンもサタンを正確に知ろうとしません。恐れるか、そういう知識は汚れたものとして近づかないようにするのです。しかし、サタンは人類のすぐそばにいます。
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。1ペテロ5:8
世界には神と人だけしかいないのではありません。サタンもいます。この事を良く理解しなければ何にもなりません。善意に満ちた計画や行為が、しばしば全く反対の結果をもたらすのはサタンの仕業です。また、人と人、国と国との友好関係を破壊するのもサタンの仕業です。どんなに真理を知ってもサタンについて知らないからたちまちその芽を食べられてしまうのです。
これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。Uコリント2:11
あまりにもサタンについて無知なために、世界もクリスチャンも全くトンチンカンな努力をしています。たとえあなたが艱難辛苦、難行苦行で精進したとしても、サタンの欺きや策略を知らなければ何もかも無駄になってしまいます。しばしば熱心で誠実な求道者が努力している内にサタンの惑わしに会い、求めていたものと思い込んで、とんでもない偽物をつかまされているのを見ます。しかし、恐れる必要はありません。サタンも悪霊も結局イエス・キリストの敵ではないのです。
さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ルカ10:17〜20
サタンは稲妻のように天から落ちています。もうしばらく彼は世界にいますがその末路も決まっています。真理を求める魂は真理に出会います。そして反対のものに出会っても真理によって打ち勝つのです。真理は人を全ての束縛から解き放ちます。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。ヨハネ8:32
この世の知恵、人間の賢さでは決して真理は獲得できません。
なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。」Tコリント3:19
必要なことは幼子のように求めることです。
ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」ルカ10:21〜22