ホームページ・メッセージ060319            小 石  泉

四次元人間


 私は最近、自分は四次元に生きる人間なんだと思うようになりました。と言っても、別に宇宙人だとか超能力者だとかドラえもんの見過ぎと言うのではありません。自分の中に、あまりにも天国がリアルで、いつもそこから物事を判断するからです。もちろんこれは私一人のことではなく、真実に神を求めているクリスチャンなら誰でも四次元人間なのです。
 四次元人間から見るとこの世のことは、常に二番目に位置づけられます。地位も名誉も財産もいらないとは思いませんが、それが人生の目的ではありません。案外これが、この世で成功したり、名声を得たりするクリスチャンが少ない原因かもしれません。
 豊臣秀吉が死の床で「露と置き、露と消えにしわが身かな、難波のことは夢のまた夢」と歌ったと言うことですが、彼はこのとき初めて四次元が見えたのでしょう。一介の百姓から身を起こし、ついに日本全土、いわゆる天下を取り、壮大な大阪城を建てた、あのスーパーマンが、死に直面したとき、自分の成功も権力も結局なんでもない、夢のまた夢だったという、この究極の幻滅は、三次元人間の限界、はかない努力、悲しい報酬です。

「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。ルカ12:16〜21

 この金持ちは典型的な三次元人間です。命は神から、この世である三次元世界に与えられている魂の住みかです。言わばかりそめの住居なのです。それが判らないのです。いつまでも自分は生きていると思っているのですが、いつ取り去られるか判らない、実に不安定な代物です。そうでしょう。あなただって今日、何かの原因で死なないと言う保証はないのです。こんな不安定で頼りないものが命なのです。だから私たちはその命を与えることも奪うことも出来る方をいつも意識しているべきなのです。それが四次元人間です。
 日本には真面目で真摯な求道者が沢山いましたし、今もいることでしょう。たとえば武士の地位を突然投げ捨て、放浪の僧となった西行。彼は何とかして四次元空間を見つけようとしたのでしょう。しかし、結局出来なかった。また「幾山河越え去り行けば寂しさの果てなん国ぞ、今日も旅行く」と歌った詩人若山牧水もやはり四次元空間を求めながら到達できなかった悲劇の人のようです。仏教には救いはありません。仏教の言う悟りとは「あきらめ」のことだと私は思います。諦観というではありませんか。あきらめです。ああ、判らない、なぜ人は生まれ、生きて、死んで行くのか。「判らない」のが答えだと言うのです。仏教には来世という言葉はありますが、そこには絶対者である神がいませんから、今と変わらない人間の世界です。

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。伝道の書3:11

 人間は元々は四次元空間を持っていました。「永遠を思う思い」を持っていたのです。
しかし、いつの間にかそれを忘れてしまいました。そして、この世のことだけで満足しようとしています。金メダルも良いでしょう、大金持ちになることも良いでしょう。政治家になって国家を論ずるのも良いでしょう。しかし、それら全ては“一時的なもの”であることを忘れてはなりません。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。Uコリント4:18

 見えないものというとき、私たちは見えるものより劣るものと考えがちですが、三次元空間からは四次元空間が見えないように、優れたものこそ見えないのです。しかし、この頃のキリスト教は、この見えないものではなく見えるものばかり追い求めていませんか。三次元空間の価値ばかり追求していませんか? これは危険なことです。これはサタンの常套手段なのです。サタンは人間から永遠を見つめる目を奪うのです。

また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。ヘブル12:6

 今の教会は、空腹のあまりに弟ヤコブが作った一杯の豆のスープと引き換えに長男の権利を譲ったエサウのように、この世の価値ばかり求めています。何千人、何万人の、どんな大きな教会でも、もしその信徒たちが四次元の価値を知らなかったら、骨粗しょう症の骨のようにひ弱な教会でしょう。サタンのひと吹きで、わらの小屋のように吹き飛んでしまうでしょう。
 最も完全な四次元人間はもちろんイエス様です。

また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。マタイ3:17

 洗礼の時、神ご自身が天から声を掛けられたのです。これは極めて異常なことです。普通、旧約聖書では受肉前(人となる前)のイエス様が語られていると考えられるからです。

父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。ヨハネ17:15

イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。」8:23

 そして、つい本音を吐かれた事があります。

イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。マタイ17:17

 さらに使徒行伝に出てくるステパノも四次元を見ていた人です。

人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。使徒7:54〜58

 ステパノは、はっきりと神の国にいるイエス様を見ました。この他にも、無数の四次元人間がいました。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。ヘブル11:13〜16

 年配の方々が何かに熱中しているのを見るのはほほえましいものです。写真、ゲートボール、旅行などなど。しかし、私はいつも思うのです、それだけですか? この世のことだけなのですか? もう、間もなく行かれるところ、四次元の世界に関心はお持ちではないのですか? どんなに立派な人生でもその先の約束がないなら、何と空しいことか。
 私たちは、そこに住むことへの希望からこの世を見ているのです。


わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
Uコリント5:1〜2

 私は若いころ、神学生の時、祈りの内に、一度だけ天国を見たことがあります。それは一瞬でした。それがなんだかその時も今も判りません。しかし、それが天国だったということははっきり判りました。あまりにも美しかったからです。天国の色彩は、この世のものとは全く違います。色も輝きも全く別のものです。白黒テレビとカラーテレビが違うように、地上の色彩と天国の色彩は違います。そして特に印象的だったのは、花のような、模様のような、衣装の一部のような、あるいは建物の一部のようなものが、命があって語りかけてくることでした。私は天国では花も木も草も石ころも全てに命と意志があって、話しかけてくるのだと思いました。このことはある有名な牧師が天国に行って来たあかしの中でも言っていたので、私はやっぱりそうだったのだと思いました。それから数ヶ月間、この経験の記憶は私から離れず、暖かく心を包みました。
 いつでも私にとって四次元はそこにあります。いや、四次元の中に三次元はあるのです。普通の言い方で言い換えるなら、霊の世界の中に、この世、物質の世界があるのです。
お聞きします。あなたは四次元空間を持っていますか? それともこの世だけですか?