ホームページ・メッセージ060312            小 石  泉

言葉と異言


全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。創世記11:1〜9

 私は時々外国に行きます。特に中国には毎年行きます。そしていつも驚くのは言葉です。隣の国で顔かたちも、着るものも食べるものもほとんど変わらないのに、言葉は全く通じません。韓国の場合はもっとショックです。よく知っているつもりなのに、そして、ものの見方、感じ方も似ているので、つい、お互いに知っているつもりで会話しようとしても、全く通じないので、改めて、そうかここは韓国なんだと思うことがしばしばです。
 私は英語は少しは話せるのでアメリカ人やイギリス人とは一応意思の疎通は出来るのですが、感性という面ではアジア人とは全く違うので、初めから理解できるとは思っていません。だから中国や韓国ほどには欲求不満は感じません。言葉って不思議ですね。
 上の御言葉は、どうして世界には違う言葉があるのかという、簡潔極まりない説明です。ノアの洪水からそれほど時間が経っていなかったのに、人間はまたしても神様に逆らうことを始めました。当時、人類はセム、ハム、ヤペテというノアの息子たちから広がっていました。このハムは色黒という意味であり、ヤペテは色白で、セムは名高いという意味ですから、単純に考えて、恐らくそれぞれ黒人、白人、黄色人種がいたと考えていいと思います。それにもかかわらず、最初、人類の言葉は一つだったと言うのです。「全地は同じ発音、同じ言葉であった」。そしてそれが自然に分れて行ったのではなく、ある時、意図的に変えられたのです。それは長い時間かかってそうなったのではなく、町と塔が完成する前ですから、数十年以内のことでしょう。
 神様が人間の計画を砕くのに、ノアの洪水のように町を破壊するというようなハードな方法ではなく、言語という言わばソフトでなさったというのは面白いですね。そして、その影響は、今に至るまで延々と及んでいます。バベルとは混乱という意味ですが、言語だけでなく、その後の社会の全ての混乱の要因ともなりました。今、スーパーコンピューターによる翻訳装置が作られようとしていますが、その名前はバベルというそうです。私が若いころ、世界の共通語を作ろうということで、エスペラント語というのが流行りました。しかし、結局使われなくなりました。今は英語が世界の共通語ですが、日本ではものすごい英会話ブームなのに一向に話せる人がいないのが不思議です。私が思うに、多分、日本人の真面目さから正確な英語を話そうとするからでしょう。どうがんばっても正確な英語なんて話せないのだから何とか通じればいいのだと割り切ればいいのですがね。
 さて、今から2000年前に人類は新しい言葉を持ちました。

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。使徒2:1〜12

 イエス様が十字架に掛かられたのは過ぎ越しの祭りの日でした。それから50日目、ペンテコストの日に(ギリシャ語でペンタとは5を意味する)言語に関する異常な事態が発生しました。イエス様の約束、聖霊のバプテスマといわれるものが与えられたのです。使徒たちは聖霊に満たされ、その結果、自分たちが語ったこともなく学んだこともない外国の言語で話し始めました。それをこの箇所では「他国の言葉」と書いてありますが、ギリシャ語でグロッソラリアと呼ばれもので、別の箇所では「異言」と訳されています。要するに聞きなれない言葉という意味です。その直前に「舌のようなものが、炎のように分れて現れ」たとありますが、この舌はグロッサです。グロッサが現れてグロッソラリアが話されたのです。

わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。ヤコブ3:2〜8

 この箇所を読むと、人間の言語はその人の全人格を支配していると読み取れます。そして、驚くことに最近の医学によって、人間の言語中枢神経は全神経を支配していることが分かってきました。ですから聖霊のバプテスマ、聖霊に浸されるとその影響が言語に現れてくるのは科学的にも証明されたのです。それが異言です。
 さて、聖霊のバプテスマはこの異言によって証明されると昔のペンテコスト派は主張しました。この間のいきさつは別の機会に譲るとして、人間がもう一つの言語を持ったと言えるのです。それが他国の言葉の場合は外国人には分かりますが、そうでない場合は人間同士ではそれこそ分からない言葉なのです。このことについてはコリント第一の手紙14章に詳しく書かれています。それは「神と語るための言語」だとパウロは言っています。

異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである。14:2

 異言は言語です。だから同じ音の連続ではありません。話している人にも、聞く人にもわからないことが多いのです。しかし、時々、それが解き明かされたり、地上の言語である場合もあります。私は祈るときほとんど異言です。異言の方が祈りやすいです。
 私たちの教会のある姉妹が、40分ほど祈っていたときに異言で祈るようになりました、その後、さらに1時間近く異言で祈っているので、「そろそろ終わりましょう」というと「はい」と日本語で答える代わりに、異言で答えました。その時、彼女の舌はもう日本語が語れなくなっていたのです。
 異言は霊的な世界の入り口だと私は思います。そしてクリスチャンなら誰でも異言で祈れるはずです。ただ、そういう経験をすることに警戒心を持つから受けないのでしょう。

そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。Tコリント12:3 

とあるのですから、クリスチャンは皆、聖霊を受けているのです。ただ、聖霊に完全に支配される経験、自分を聖霊に完全に明け渡す瞬間が必要です。これは継続的な経験になることはもちろん望ましいのですが、バプテスマも一回であるように一時的な体験です。ヤコブ書にあるように、聖霊に全身が支配されると、新しい言葉によって語るようになるのです。

信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。マルコ16:16〜18

 異言を語るからといって、突然人が清くなったり、完全になったりするわけではありません。また何か強烈なパワーを持つわけでもありません。私の経験では異言を語る人の信仰には自分の努力によらない、ゆだね切った安らかさがあります。ただ、異言も必ずしも聖霊によらず真似事であったり、悪くすれば悪霊によるものと思われるような場合もありますからその点は注意が必要ですが、しかし、そう言う事を先に心配するあまりに、このすばらしい体験をいただかないのもつまらないことです。さらに、

わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい。Tコリント14:17〜19

 とあるから異言なんていらないという人がいます。しかし、パウロはここで異言を禁じているのではなく、乱用を戒めているのです。それほど異言を語る人が多かったのです。初めから異言を語らないで否定するのはナンセンスです。異言の祈りの心地よさは体験するしかありません。そしてそれは求めることです。