メッセージ060226                    小 石  泉

牧師と祭司


「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である。出エジプト記19:5〜6

 イスラエル民族は世界の人類の祭司となる民族でした。彼らはそのことを自負し、今でもその思想の中に居ると思われます。イスラエル民族なら誰でもそういう意味では祭司でした。一方、新約聖書でパウロはクリスチャンに向けて同じことを言っています。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。Tペテロ2:9〜10

 これがイスラエル民族、ユダヤ人のクリスチャンに向けたものではないことは、後半の10節から明らかです。これはイスラエル人にとって許しがたい言葉でしょう。最近になってクリスチャンさえもがこのことに確信を失っているかのような発言をしますが、クリスチャンこそ、あのペンテコストの日以来、真のイスラエル人なのです。
 さて、ここから万民祭司説という言葉が生まれました。クリスチャンなら全て同じだから、牧師も信徒も同じ権威があるというものです。たしかにイスラエル人が世界の祭司であったように、クリスチャンは現在の世界の祭司です。これは大変な思想ですね。思い上がりというか、頭に血が上っているというか。しかし、事実です。新約聖書を読めばそのように書かれています。このことがもっとクリスチャンに理解されていれば、多くの問題が解決するでしょう。しかし、ちょっと待っていただきたい。イスラエルには厳密な祭司制度というのがありました。

それで、父祖の家ごとに登録された二十歳以上のイスラエル人で、イスラエルで軍務につくことのできるすべての者、すなわち、登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。主はモーセに告げて仰せられた。「レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録してはならない。また、その人口調査もしてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない。イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。怒りがイスラエル人の会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋の任務を果たさなければならない。民数記1:45〜53

 イスラエルの十二部族の内、一部族レビ人は神に仕える祭司の部族として特別に選ばれました。彼らは他の部族のように生産する農地を与えられませんでした。それは他の部族の十分の一の捧げ物によって生活するように定められていたのです。 そして、その中からさらにその年の祭司団が選出され、その中からさらに神の神殿の最も聖なる場所、至聖所に入って祭儀を行う大祭司が選出されたのです。その最初の大祭司はモーセの兄、アロンでした。それ以来、大祭司は非常な尊敬を受けました。レビ人はもっぱら神に仕えるということ、いわゆる祭り事に専念する人々でした。

また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表わす聖なる装束を作れ。あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵のある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなければならない。彼を聖別し、わたしのために祭司の務めをさせるためである。出エジプト記28:2〜3

その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。同29:43〜45

 イスラエル民族は祭司の国と呼ばれていましたが、このように祭司制を尊び、重んじたのです。それは次のエピソードでも判ります。これはモーセの後、ヨシュアが約束の地カナン(現在のパレスチナ)を征服してから間もなく、士師という神の選びの指導者がイスラエルを支配したときのことです。

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。」そこでミカは言った。「私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。」それで、このレビ人は同意した。このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。そこで、ミカは言った。「私は主が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。」士師17:6〜13

 一人の若い放浪のレビ人がミカという裕福な家に宿泊しました。彼がレビ人だと判ったミカの家の人々は、彼をうやうやしくもてなし、自分の家の祭司として神に仕えて欲しいと頼んだのです。このようにイスラエルの人々は祭司を重んじました。(ちなみに、現在、コーエンという名のユダヤ人はレビ人です。トリノのフィギュアの選手コーエンさんも多分そうでしょう。)

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。エペソ4:11

 私たち、キリスト教会の場合、カトリックにはその残滓が見えますが、プロテスタントはこの祭司に当たる人々が居ません。一般に現在の聖職者たちは教育的な働きがその主なものです。これはユダヤ人が西暦70年、ローマの将軍テトウスによって、エルサレムが陥落し、神殿が主イエスの預言の通りに粉々に破壊されて、世界に追放されたときから、彼らは神殿を持たず、シナゴーグという集会所で礼拝を守って来たことに似ています。そこでは律法学者、パリサイ人といわれる人々、現在はラビと呼ばれる人々によって、教育的な指導が為されていました。これらの人々は必ずしもレビ人でなくても良いようです。ここには祭り事はありません。(ただし、すでにイスラエルではレビ人を探し出し、教育して、間もなく建設されることを期待されている第4神殿で奉仕する訓練をしています。その建材もすでにアメリカのフロリダに準備されているそうです。)
 さて、神の国の福音は全ての人が宣べ伝えることが要求されていますから、だれでも説教したり、教育することは良いことです。しかし、エペソ書の指導者たちには祭司のような選びはないのでしょうか。

神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、ローマ1:1

 パウロは自分のことをこのように紹介しています。「選び分けられ、使徒として召された」。もちろん、パウロはユダの抜けた十二弟子の中に入れられるべく神が備えた人物でした。しかし、このような選びはその後の神に仕える人々が等しく経験したことです。使徒ではなくても「選ばれ、召された」のです。そうでなければ出来るものではありません。
 私は今のプロテスタントはあまりにもこの祭り事のために選ばれるということが、ないがしろにされていると思います。むしろこの思想、もっぱら神に仕えるということ。、聖なることと俗なることの区別はカトリックや、日本の神道の方がしっかりと受け継いでいます。私が見る限り、プロテスタントは、あまりにも軽々しく神の聖なる事を扱っています。

そこで彼らはアビナダブの家から神の箱を新しい車に載せた。ウザとアフヨがその車を御していた。ダビデと全イスラエルは、歌を歌い、立琴、十弦の琴、タンバリン、シンバル、ラッパを鳴らして、神の前で力の限り喜び踊った。こうして彼らがキドンの打ち場まで来たとき、ウザは手を伸ばして、箱を押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。彼が手を箱に伸べたからである。彼はその場で神の前に死んだ。ダビデの心は激した。ウザによる割りこみに主が怒りを発せられたからである。それでその場所はペレツ・ウザと呼ばれた。今日もそうである。T歴代史13:7〜11

 ダビデが神の箱をそれまで置かれていたアビナダブの家から移そうとしたとき、牛車からそれが落ちそうになったのです。そこでウザという人がそれを手で押さえました。そのこと自体は悪いこととはいえないでしょう。ウザは良いことをしたつもりでした。しかし、彼の心に聖なるもの、祭り事に対する軽率な思いがあったのです。彼は神に打たれて死にました。一見、神の側の理不尽な処置と思われますが、聖なる事というのはこれほど厳格なのだということを、私たちは忘れています。
 今、清いこと、聖なる事に対する敬虔な態度、心のあり方が、問われるべきではないかと私は思います。軽々しく神の仕事を取り扱うべきではありません。最大限の謙遜、畏れ、敬虔な思いを持って成すべきです。その際、その人の外面的、内面的な資質も問われるべきでしょうが、むしろ、罪深く限りある人間の資質よりも、そのことに対する発想、態度、考え方が重要だと私は思います。
 牧師や指導者にはこのように「祭り事」を行う資格と任務が与えられていると私は思います。もしあなたがそんなことは認めないと言われるなら、それはそれで結構です。ただ、それを尊ぶなら、もっと大きな祝福があると私は信じます。