ホームページ・メッセージ060219            小 石  泉

カトリックについて


  先日、ふと見た古い週刊誌に面白い話が載っていました。あるバスに男の子を連れたお母さんと、カトリックのシスターが隣り合わせに座っていました。すると男の子が盛んにシスターに話しかけていたそうです。母親は降りるときに「お相手をしてくださってありがとうございました」と言いました。するとシスターが「どういたしまして、どうぞあの子に私がペンギンではないとは教えないでください」と言ったそうです。わからない方のために解説?すると、男の子は「おばさんはペンギンなの?」と聞いたのでしょう。それにシスターは「そうよ」と答えたのです。さすがシスター、人間が出来ていますね。
 今日は私がカトリックをどう見ているかをお話しましょう。これはあくまで私の個人的な考えで、決してカトリックを十分に解説するものではありません。もし間違っていたらどうぞ教えてください。
 カトリックとはギリシャ語で「全体の、普遍的な」という意味です。言うまでもなく、16世紀に宗教改革が起こるまでは教会は大まかに言って一つでしたから、「全体の、普遍的な」教会であったのです。細かく言えばイスタンブールにあって、後にロシアに行きロシア正教となった東方教会、アルメニア教会、エチオピアのコプト・キリスト教会、中国に来て景教となったネストリウス派の教会などがありました。
 そしてルターやカルビンによる宗教改革が起こり、抗議(プロテスト)したと言う意味のプロテスタントが生まれました。確かに当時のカトリックは腐敗堕落していました。免罪符はその最も分かりやすい誤りです。しかし、その後、カトリック内部でも大きな改革があったようです。今はマリヤ崇拝もそんなには強制されていないように見受けられます。
 
 さて、私が神学校を出て、開拓伝道を始めたころ、今の家内と婚約して、家内の実家に行くことになりました。当時は飛行機は高かったのと、急に決まったので私たちは北海道までの特急券が買えず、仙台で乗り継ぐことになりました。その仙台までの急行の食堂車で私たちはたまたま二人の外国人と同席になりました。その一人は日本在住の宣教師で、今まで汽車の中で日本人のクリスチャンと会ったことがなかったのにと喜んでいました。もう一人は、なんとイスラエルのナザレ在住の牧師でした。今でこそイスラエルには簡単に行くことは出来ますが、当時は夢のような話で、私たちは大いに感激し、4人は大いに歓談したのでした。
 仙台に着くと、まだ4〜5時間あるので、青葉城という、有名なお城があるから見に行こうと私が提案して向かいました。ところが私はそれまで平地にある城しか見たことがなかったので、気楽に歩き始めたのですが、青葉城はかなり高い山の上にあったのです。登り始めたころには日も沈み、真っ暗になってしまいました。どうも次の汽車に間に合いそうもないのです。道があって車は沢山来るのですがタクシーは全く来ませんでした。とうとうたまりかねて彼女が通りがかりの車に手を上げて乗せてもらうことにしました。止まってくれた車を運転していたのは、何とまたしても外国人の宣教師、それもカトリックの神父さんでした。彼は実に親切に私たちを頂上の見晴台まで連れて行ってくれて、駅まで送ってくださったのです。これらのことが一日のうちに起こりました。
 私は伝道の初めに、非常に困った事態を解決するために神様が送ってくださった助け手がカトリックの方だったと言うことに非常に大きな印象を受けました。
 カトリックとプロテスタントの違いは聖書の範囲だと言います。私たちプロテスタントは聖書は現在の旧約聖書と新約聖書の66巻で他にはないと言います。一方、カトリックは66巻はそのまま認めますが、その他に外典や偽典と呼ばれるもの、さらに祈祷書、多くの聖人の書いたものも聖書と同じ価値を認めます。
 また、最も大きなものは法王庁です。カトリックは次の御言葉から法王がペテロの後継者だと言い、天国の鍵を持っているのはカトリックだと言います。

イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。マタイ16:13〜19

 ここに「あなたはペテロである」とあり、「この岩の上にわたしの教会を建てよう」と言われているから、ペテロの後継者であるカトリックが天国の鍵を持っているのだというのです。しかし、このペテロとはギリシャ語でpetrosで、岩と言うより、小石を指す言葉です。この岩と言うのはpetoraと言います。このピリポ・カイザリヤは現在はバニアスと呼ばれている町でイスラエルの北方地方で美しい保養地です。この町には大きな岩山があり、その中腹からヘルモン山の伏流水が噴き出しています。これがヨルダン川の源流です。ここに行くとイエス様が「わたしを信じるものは、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と言われた言葉の意味が良く分かります。そしてイエス様がこの町で、岩petoraと言ったとき、この岩山を意識しないはずはありません。それは、小石petrosとは全く違うことが分かります。プロテスタントは、「この岩」というのはペテロの「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という信仰告白だと信じます。
 また、不思議なことに、カトリックにはペテロ二世とかペテロ三世と言うように、ペテロと名乗った法王が一人もいません。12世紀のカトリックの司祭で預言の賜物を持っていたと考えられるマラキと言う人は、(旧約聖書のマラキ書とは違う人物)彼以後の法王を的確に一行で預言していますが、その最後の法王の名だけがペテロだと言っています。前の法王ヨハネ・パウロ二世は「太陽(東)の労働者」でした。彼はポーランドの労働者出身です。今の法王は「オリーブの栄光」とありますが、ベネデクト一六世の出身団体ベネデクト会は「オリーブの会」として知られているそうです。そしてこの次の法王が最後の法王ペテロだとマラキは言っています。「これで終わり」と書いてあります。あと一人です。
 さらに宗教改革者たちは黙示録の大淫婦をカトリックと言いました。

それから、七つの鉢を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう。地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。御使は、わたしを御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。の女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見た時、わたしは非常に驚きあやしんだ。黙示録17:1~6

 確かに中世の権力と富に満ちたカトリックには、ここにある大淫婦の面影があります。しかし、今のカトリックがそうだとはちょっと言えません。私はいつも思いますが、プロテスタントが束になっても、あのマザー・テレサ一人にかなわないのではないでしょうか。敬虔さ、無私の奉仕、献身などのどれをとってもカトリックの司祭やシスターたちにはかなわないと思います。もちろんその逆も沢山あるでしょう。いくらでもカトリックの悪いことを並べ立てることも出来るでしょう。しかし、真実の信仰者もまた沢山いるはずです。

 それならプロテスタントはどうでしょうか。大いに勝っていると言えるでしょうか。
また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起るのである。
Tテモテ6:5

 信心を利得と心得るとありますが、近頃のナントカ大会カントカ聖会では、敬虔さより金儲けのほうが多く語られていませんか? 教会成長、病の癒し、霊の解放は語られても、カトリックの修道士たちの求める敬虔さや無償の奉仕や献身は語られていますか?

 私たちの教団のある教会に本当に起こった出来事です。ある青年が教会に行ってみたいと思いました。彼は近くの教会を知らなかったのでとりあえず駅まで行って聞いてみようと思いました。駅に行くと二人のシスターが修道女の服装をして歩いていました。ああ、この人たちの後について行けば教会に行けるだろうと、彼は彼女たちの後についていきました。すると案の定、教会に入っていきました。その日は日曜日だったので、教会では礼拝が行われていました。集会が終わってあの二人はどこに居るのだろうと見回しても居ませんでした。教会の人に聞くと、「ここはプロテスタントの教会ですからシスターは居ませんよ」という答えでした。それ以来彼はその教会に出席しクリスチャンとなり、今では伝道師として奉仕しています。
 彼を導くのにプロテスタントの人では出来なかったことでしょう。神様はシスターの服装をした天使を遣わされたのです。これは本当にあったことで、もし、その兄弟に会いたかったら、いつでもご紹介します。