ホームページ・メッセージ060212 小 石 泉
信仰の倦怠期
このようなタイトルをつけると、熱心で真面目なクリスチャンからお叱りを受けそうです。「神の御子の尊い血によって贖われた者に倦怠期などあるはずがありません!」。しかし、私は最善の結婚にも倦怠期があるように、すばらしいクリスチャンにも信仰の倦怠期があると思います。そして、旧約聖書のイスラエルの歴史はこの信仰の倦怠感の歴史だったとさえ思います。
イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。出エジプト記16:1〜3
イスラエルの民はエジプトに下された十の災いを見ました。エジプトの全ての長男が死ぬという恐るべき悲劇の後に二つに割れた紅海を通って、まだ二ヶ月目でした。ミリアムがタンバリンを手にして踊ったあのすばらしい歓喜の余韻がまだ消え去らないときに、早くも彼らはつぶやいたのです。「エジプトに居れば良かった。」
クリスチャンも暗黒の中を、神も希望もなく手探りで歩いていたところから救われて、光と希望の中に入れられたのに、しばらくすると信仰生活にたゆみがやってくることがないでしょうか。信仰を捨てたのではないのです。神とキリストを忘れたのではないのです。ただなんとなく・・・・・。救われたとき、あんなに喜んだのに。今は、光がまぶしすぎるから? 空気が清すぎるから? 立つ岩が高すぎるから?
行って、エルサレムに住む者の耳に告げよ、主はこう言われる、わたしはあなたの若い時の純情、花嫁の時の愛、荒野なる、種まかぬ地でわたしに従ったことを覚えている。エレミヤ2:2
アメリカやヨーロッパに行くとキリスト教が溢れています。アメリカなら、どこに行っても教会があり、教会に行けば聖書でも信仰書でも何でも欲しいだけもらえます。毎日24時間、テレビもラジオもキリスト教番組があり、それらは何とかして自分たちの番組に人々をひきつけたいとショーのようにきらびやかで、これでもか、これでもかと押し付けられます。ヨーロッパの場合、中世の荘厳な伽藍が町の中央にあり、日本のお寺や神社のように人々を圧倒しています。生活の隅々まで信仰の空気が漂っています。しかし、そこに何とも言えない倦怠感を感じるのは私だけでしょうか。そして、そのアメリカとヨーロッパで、今、急速に偶像礼拝とサタン礼拝が増加しているのです。
時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。またわたしに言われた、「あなたはさらに彼らがなす大いなる憎むべきことを見る」。そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。その時、彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。これよりもさらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。エゼキエル8:5〜16
モーセから900年ほど経ったエゼキエルの時代に、イスラエルの長老や祭司長たちが神の神殿で偶像礼拝をしていたのです。エゼキエルは神の幻のうちに実際にそこに行ってその光景を見たのでした。ユダヤ人は選民といいますがその歴史は神への反逆と背信です。それは旧約聖書を読めば明白です。(しかし、異邦人は全く無感覚に、何の罪意識もなく、偶像礼拝を行っていましたから、どちらも同じことですが。)
今、同じことが欧米の教会で起きています。私はこれについてかなり知っていますが、詳しく話すことは出来ません。私はキリスト教国家(正確にはそのようなものはありませんが、そう思われている国々で)が偶像礼拝やサタン礼拝に走る原因の一つは倦怠感だと思います。人間はあまりにも清いもの、気高い環境、正しい戒めの中に長く耐えられないのではないかと思います。もちろん個人差はあります。ただ、そういう環境に耐えられると自称する熱心な人々は、他人を裁くことに熱心なものです。
基本的に人間は、罪深いもので、救われてもなかなか一度には清くなれないものです。かつてブラジルがブラジリアという、完全に設計され整えられた首都を作ったとき、そこには余り人々は住まず、ブラジリアを作った労働者たちが、その近くに作ったスラムのような町には沢山の人々が集まって住んでいるといいます。
「私が好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。マタイ9:13
感謝なことに、このような罪人を救うためにキリストは来られたのです。そして、私たちは清くなることを期待されていますが、それはまた長い戦いでもあります。
しかし、いつまでもそのままで良いのではありません。私たちは今、それこそ世の終わりにいるのです。このように警告されています。
サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。黙示録3:1〜2
「生きているというのは名だけで、実は死んでいる。目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。」イエス様の言葉は辛らつですね。生きているとは名ばかりですって。死にかけている残りの者ですって。これは正に今の時代に生きる私たちへの警告ではありませんか。さらにこのようにも言われています。
ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。3:1〜20
イエス様の言葉は実に当意即妙ですね。正に生ぬるい。倦怠感です。冷たいか熱いかであって欲しい。私はいつも思うのですが、「熱くあって欲しい」というのは判るのですが、「冷たいか」というのは面白いですね。私はこの言葉に、イエス様の明瞭な御性質を感じます。熱くないならいっそのこと冷たいほうがはっきりしている。どちらかはっきりしなさい。あいまいな態度は許しません。
また、「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」という言葉など、近頃の欧米や日本人にぴったりだと思いませんか。欧米では信仰の倦怠感は、偶像礼拝、サタン礼拝につながっています。日本のクリスチャンの場合はそういうことはあまりないのですが、あなたが神の国と神の義をまず第一に求めないならそれは薄められた偶像礼拝となりませんか?
こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。Tテモテ1:6〜7
「再び燃えたたせなさい」という言葉は香料などをかき混ぜて香りを強くすることを意味します。もう一度、あなた自身を神様の前に差し出してください。信仰に入ったばかりのあの感激と感謝を新しく掻き立ててください。
あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。黙示録2:3〜5
「初めの愛」美しい言葉です。もう一度、救われたばかりのあの新鮮な信仰を思い出して、謙虚に主の前に出ましょう。私の燭台をとりのけないでください。私から聖霊を取り去らないでください、と祈りましょう。