ホームページ・メッセージ060205 小 石 泉
御霊のうめき
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:26〜28
この箇所ほど神の第三位である聖霊のお姿を明確に表しているところはないと思われます。私たち人間の祈りが、いたらなく、貧しく、自己中心で、神の聖い御座に到達するのをはばかる時、御霊は「言いようもない深いうめき」によってとりなしてくださるのです。昔の文語訳聖書では「言い難き、嘆きを持って」とありました。神である方がうめくのでしょうか。神である方が嘆くのでしょうか。
世界が創造されるとき、混沌とした地球の上に御霊がおられました。
はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。創世記1:1〜2(口語訳)
初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。(新改訳)
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(新共同訳)
The earth was without form, and void; and darkness was on the face of the
deep. And the Spirit of God was hovering over the face of the waters.(KJV)
「水のおもてをおおっていた」「動いていた」どちらの訳もあまり適切な訳とは思えません。本当はキング・ジェームス・バージョンのように、hovering「羽ばたいていた」あるいは「飛びかけていた」という方が良いと思われます。創られたばかり、生まれたばかりの地球。まだ形も定まらず、何もない空虚な大地。もしかしたら蒸気や噴煙を吹き上げていたのかもしれません。そんな不安定な地球をじっと見つめて、保護する母鳥のように、御霊はそこに居られました。地上が、混沌とし、混乱し、異常な状態のときに御霊は見守っておられるのです。
大きな意味で地上に悪がはびこり、不安定で混乱し、混沌としたとき、神の御霊はその上を舞いかけ、見守り、時至らば介入なさろうと準備されています。ああ、どうぞもう早く介入してくださいと祈らずには居れません。
とりわけローマ書ではとあります。「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださる」とあります。御霊は神の御心を知っておられ、人の心も知っておられます。ですから双方の一致点を見出して最善に導いてくださるのです。
あなたの心が、あの創られたばかりの地球のように不安定で、混乱し、混沌としていても、御霊は貴方の上に舞いかけておられるのです。しかし、私たちはしばしばあせって、血走った目で先のことを心配し、自分の力で何とかしようと試みて失敗してしまいます。
聖霊は実に静かにそこにおられます。私たちが心静まって待ち望まなければその存在すらわかりません。「言いようもない深いうめき」をもってあなたのためにとりなしておられるのに。もう一度いいますが、不思議ですねこの御言葉は。神がうめき、嘆く。
そうです、私たちが今の世界を見て嘆き悲しんでいる以上に、御霊は言いようもない深いうめき、言い難き嘆きをもって見ておられるのです。それなら何で、毎日々々、こんな悲しい恐ろしい出来事を許されるのですか?
今は世界が新しく創り変えられるときなのです。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。8:18〜25
この箇所を文字通り読むなら、こういうことになります。「今、神の創造された世界は解放のときを待っています。それは神の子たち、すなわちキリストによって罪許され、束縛から解放された者たちによって、世界が解放されるからです。」「被造物全体が神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」というのです。 不思議な言葉ですね。人が罪から解放され、神の子とされると被造物全体が解放されるので、それを待ち望み、生みの苦しみをしているというのですから。クリスチャンは宇宙全体の救いの鍵なのです。
(特に、「それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。」という箇所は難解です。私はどうしても意味が判りませんでしたが、TEV(Today`s English Version 現代英語訳 )によって少し理解できました。For creation was condemned to lose its purpose, not of its own will, but because God willed it to be so. Yet there was the hope.8:20 「被造物がその目的を失ったのは、自分からではなく、神がそうされたからです。しかし、希望があるのです。」となります。)
驚くべきことです。私たちが考えているより、はるかに私たちの地位は重大だということになります。私たちは次のような存在です。
私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。Uコリント6:8〜10
私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。Tコリント6:3
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。8:29〜39
神は私たちのために「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」のです。宇宙万物の創造者がその御子を死に渡されるほど、私たちは愛され、重大な任務を与えられているのです。それはサタンがかつて天で持っていた権限をはるかに越えるものなのです。ですからサタンはクリスチャンをねたみ苦しめるのです。恐らく生きている間にこのことを本当に理解できる人はほとんど居ないでしょう。神の国に行ったときでなければその真実の栄光と重さは理解できないでしょう。
そのために御霊は私たちの上に舞いかけて守っておられるのです。特にあなたが悩みの中にあるなら御霊の羽ばたきに耳を澄ませてください。じっとあなたを見守り、神にとりなしておられる優しい静かな方に。