メッセージ060129                 小 石  泉

正義と平和と真実の国


 マンション偽装問題を初めとする様々な犯罪を見ていると、この国では偽りと金儲けと殺人が平気で行われるようになったと思わずにはいられません。もちろん日本ばかりではなく、世界中が多かれ少なかれそのような危険をはらんでいます。ずいぶん昔読んだ本の中に、「20世紀の後半は、世界は人が住むにはあまりにも危険な場所になるだろう」と書かれていたことを思い出します。

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。ローマ1:28〜31

 かえるを熱い湯の中に入れるとすぐに飛び出すが、冷たい水から徐々に暖めると、ついには煮えてしまうまで飛び出さないといわれます。今、正に人々はそのような状況の中で昔から見ると驚くような環境に慣れて生きています。
 世界は希望を失っています。正義と平和と真実の国なんてあるはずがないと。しかし、聖書はある日、そのような国が出来ると預言しています。

エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。イザヤ11:1〜10

 この中で「エッサイの根株」とあるのは、ある人物がエッサイの子、ダビデの家系から出てくると言っているのです。「その根から若枝が出て実を結ぶ」の若枝とはナザレという意味で、その人はナザレから出るという預言です。イエスさまはナザレで育ち、父ヨセフも母マリヤもダビデの家系でした。そのことから、これはイエス・キリストの預言です。そして、ここに書かれている希望は一部分は少しだけ実現しましたが、大部分はまだ実現していません。「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯とな」っているような、賢いクリスチャンの支配者や裁判官も居るにはいたでしょうが、とても十分とは言えないでしょう。
 その後に続く、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べ」るような平和は全くありませんでした。ですからこれはこれから起こることだと考えられます。
 では、これはいつ起こるのでしょうか。キリストが再臨して、千年王国が来るときでしょうか。それともこれは現実の世界に起こることではなく、霊的なことなのでしょうか。
「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く」とあることから、現実に起こることだとしか考えられません。キリストを世界中が知り、敬うときが来るというのです。私には気の遠くなるような不可能事に見えます。しかし、聖書の預言は細部に至るまで成就するものです。これとよく似た預言があります。

見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。イザヤ65:17〜25

 ここでは、はっきりと新しい天と新しい地とありますから、これはクリスチャン一般に理解されている千年王国ではなく、新天新地のことだと考えられます。しかし、私は何十回も聖書を読みましたが、どうしてもこの千年王国と新天新地が理解できませんでした。正直に言って、その時代区分は何がなんだか判らないのです。この時代区分はダービーという聖書学者が19世紀に言い出したもので、ルター、カルビンなどの宗教改革者までは無かった思想だということも聞いたことがあります。
 大切なことは、それがいつであるかと言う事ではなく、神にある平和はこのようなものであるということです。本来、国連の議場にはこの御言葉が掲げられなければならないでしょう。しかし、国連には諸宗教の礼拝所はあっても、聖書の神は追い出されています。
 ところで、私たちクリスチャンの希望は、エホバの証人のように、この地球上で平和に住むことではありません。私たちの希望は次のようなものです。

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。Tテサロニケ4:13〜17

 私たちは天において神と主イエスと共に住むことが希望です。「いつまでも主とともにい」たいのです。そして、さらにこう書かれているからです。

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」黙示録21:1〜4

 ここに、やはり新しい天と新しい地という言葉がありますから、イザヤ書の言葉は新しい地のことなのかもしれません。しかし、私たちは新しいエルサレムに住むことを希望します。間もなく、それは訪れます。ですから私たちは耐え忍びます。

しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。ヘブル12:22〜24

 これは現実に起こることです。その日が待ち遠しい。