メッセージ060122 小 石 泉
神と偶像
主はこう仰せられる。「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいていても。国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(中略)彼らはみなまぬけ者で愚かなことをする。むなしい神々の戒め・・それは木にすぎない。銀箔はタルシシュから、金はウファズから運ばれる。偶像は木工と金細工人の手の作。その衣は青色と紫色、これらはみな、匠の作。
しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。あなたがたは、彼らにこう言え。「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる。」と。エレミヤ10:2〜11
今年の正月も多くの人々が神社仏閣に初詣に出かけたことでしょう。そこに祭られている仏像やご神体といわれるものに空しさを感じないのでしょうか。それらは「林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。」
そういうと、こう答えられたことがあります。「いや私たちは偶像そのものを拝んでいるわけではない、その奥にある厳かなものを拝んでいるだ。祈るという行為そのものが尊いのだ。」しかし、神様は偶像崇拝を極度に嫌われます。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。出エジプト記20:4〜6
天地を創造された神以外に神として崇めるものがあってはならないのです。そして、「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる。」とさえ言っておられるのです。天地を創造された神だけが崇められるべきです。
ヒゼキヤは主の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。U列王19:15
ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。イザヤ37:16
このように天地を創造するということは、神の条件であるといえます。聖書の神は、その第一の存在理由を「天地を創造した」というのです。しかし、日本の神々はそんな大それたことには関わりません。せいぜい、家内安泰、交通安全、商売繁盛、身体健康、入試合格などにご利益があれば良いとされます。ここには天地の存在、宇宙の神秘、永遠の時間、絶対の正義、愛や美徳などへの追求はありません。
神が居るのか居ないのかということは、実際はとてもナンセンスな質問です。天地が神によって創造されたのですから、神が居ないというなら、その人自身も居なくなるわけです。さらに偶像を神とすることの危険性を聖書は伝えます。
私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。Tコリント10:19〜21
偶像への捧げ物は悪霊に捧げられているというのです。偶像の陰には悪霊が居るのです。ある人のお母さんが重病の床にありました。クリスチャンの娘さんが行くと、頭が痛いと言います。娘さんが枕を直していると、なにやら枕の中に入っていました。開けてみると、竜の絵が書かれたどこかのお寺のお札が入っていました。それはクリスチャンでないお嫁さんが入れたものでした。そのお札を捨てるとお母さんの頭痛も治りました。私は偶像と深いかかわりをもっているために病弱だと思われる人を幾人か知っています。
日本は太平洋戦争のあとで、もし、アメリカではなくソ連に占領されていたら、ほとんどの神社仏閣は消滅していたでしょう。靖国神社問題など話にもならなかったでしょう。しかし、アメリカの寛容な宗教政策(基本的にはプロテスタントは武力によってほかの宗教を弾圧することはないので)によって神社仏閣は今日の繁栄を維持しています。
世界の歴史上、極端な偶像崇拝の国を神様は許して置かれませんでした。バビロンもギリシャもローマも、そして特に南米の宗教の場合、太陽神に捧げるために無数の子供を殺して捧げましたから、ほとんど消滅してしまいました。私は日本もこのまま偶像礼拝を続けるなら、その罪を身に染みて悔い改めるときが来るだろうと思います。
しかし、私たちが神を信じるのは、創造者であるからではなく、神が私たちを愛してくださったからです。この宗教は信じることよりも愛することが求められているのです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。Tヨハネ4:10
私たちが神を信じるのは神が私たちを愛してくださったからです。偶像が私たちを愛するなんてことはありえません。それなのに富を捧げたり、自分の体を傷つけたり、難行苦行をしたり、時には人生まで捧げてしまうのはどうしてでしょうか。私には不思議でなりません。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4
神様がこんなに私たちを愛して下さっているのに、その方を無視し、自分で作った神々や偶像を拝むのはなんという失礼なことでしょうか。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。Tヨハネ4:16
神は愛そのものなのです。愛によって天地を創造し、愛によって人を創造し、愛によって御子を遣わし、愛によって私たちの罪を贖い、愛によって世界を治められます。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。ヨハネ15:9
キリストの愛のうちにとどまること、それがキリスト教です。