ホームページ・メッセージ060115            小 石  泉

女性の幸せ


 今日はちょっと珍しいメッセージをしましょう。私は長年牧師をして来て、あることに気がつきました、それは女性が、聖書の求めている姿と現実の姿が大幅に違ってきていることです。その結果、実は女性が幸せではなく、不幸になっているとしか思えません。
 ところで聖書に男と女という文字がどのくらいあると思いますか? 私はこの変わった発想を調べてみてびっくりしました。なんと口語訳では男が366に対して女が1288、新改訳では男490に対して女は1379です。圧倒的に女が多いのです。これはどういうことなのでしょうか。
 聖書は女性の存在理由をはっきりと書いています。

また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。れで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。創世記2:18〜24

 女性は男の「助け手」として創造されたのです。この助け手という言葉は原語のヘブル語では「援軍」を意味します。お気に召そうと召すまいと、聖書は男が先にあって、女が後、すなわち男のために女が創られたのです。なぜ、こんなことを言うかというと、近頃はそれが全く逆転しているように思えるからです。恐らく、今、公にこういう発言をしたら、ものすごい反発が女性だけでなく男性からも来るでしょう。しかし、この倒錯が実に多くの不幸を家庭にもたらしています。

夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。Tペテロ3:7

 聖書は女が弱いものだと言っています。ところがこれも夫婦の間で全く逆転しているケースがあまりにも多いと私は思います。強い妻のために小さくなっている夫の何と多いことか。そして妻が自分が乗っている夫という船を打ち壊して、結局、自分も沈没してしまうケースが何と多いことか。今は女が弱いなんてほとんど誰も信じていません。どうしてこんなことになったのでしょうか。
 世界のほとんどの国や民族の間では、数千年に渡って女性は男性に虐げられてきました。女性の歴史は男性からの暴力と搾取の歴史だったといって過言ではないでしょう。その意味では、今は良い時代なのかもしれません。しかし、何事も行過ぎると良くありません。
 信じていただけないかもしれませんが、1776年、ドイツのババリアで世界のサタン崇拝者の富豪が集まって、世界を統一しサタンの支配する国を作るための方策を話し合いました。彼らはアダム・ヴェイスハウプトという有能な若者にその働きをゆだねました。彼らはそのために3つの方針を定めました。
1. 国家の破壊
2. 宗教の破壊
3. 家庭の破壊
 国家の破壊のためには世界大戦が。宗教の破壊のためには宗教間の軋轢と内部崩壊が。そして、家庭の破壊には女性の権利拡大が図られました。この女性の権利拡大のために、フェミニズムという概念が有能な人々によって、あらゆる角度から人々の意識の中に計画的に植えつけられました。これが特に激しかったのはアメリカです。その結果アメリカでは離婚するカップルが50%近い(あるいはそれ以上?)ことになりました。
 女性が家庭の中で権利を主張すると誰も止めることが出来ません。男性には会社とか職場の組織的な制約がありますが、女性の場合夫さえ支配すれば、世界を支配したも同然です! 女性の方は怒るかもしれませんが、私はそういうケースを沢山見てきたのです。先ほどの聖書の中での男と女という言葉の数は、その事への一つの示唆かもしれません。

婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。もし何か学びたいことがあれば、それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。Tコリント14:34〜38

 この言葉ほど女性の権利を無視する言葉も無いと思われませんか。パウロ先生は何でこんなことを言ったのでしょうか。「家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。」クリスチャンでない婦人がこの言葉を読んだら、「冗談じゃあないわよ、絶対許せなーい!」というのではないでしょうか。しかし、それは「主の命令」だとパウロ先生は言っています。

また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。Tテモテ2:9〜15

 パウロ先生がこのように言ったのは、そういう必要があったからなのでしょう。聖書全般に言えることですが、聖書に書かれていることは簡単に出来ることや当たり前のことではないのです。当たり前に出来ることならわざわざ戒める必要は無いからです。
 ほとんどの場合、世界的に見ても、教会には男性より女性のほうが多くいます。女性のほうが霊的なことに敏感だからです。それなら女性に霊的なことを任せたほうが良いように思います。しかし、それこそパウロ先生が厳しく戒めるところなのです。女性の場合、どうしても自分中心の考え方をする傾向が男性より強いと思います。公平さ、視野の広さ、未来への展望などの資質は男性のほうが格段に優れていると思います。そうでない男性は価値がありません。

年老いた女たちにも、同じように、たち居ふるまいをうやうやしくし、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい。そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言がそしりを受けないようになるであろう。テトス2:3〜5

 パウロ先生はずいぶん露骨ですね。そして「夫を愛し、子供を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順である」若い女性なんて本当に見つけ出すのが困難だと思いませんか。とりわけ「夫に従順」なんて今時探しても無駄ですね。
 「先生はずいぶん言いたいことを言っていますね」と言われるかもしれませんが、実は私は女性のために言っているのです。このような聖書の戒めに従うことが、本当の女性の幸せなのです。テレビに出てくるいわゆるゴージャスだとかセレブだとか言う女性たちのなんと浅はかで慎みの無い、あさましい顔立ちであることか。
 今は、慎ましさ、やさしさ、柔和さ、たおやかさ、清らかさ、なんていう女性特有の美しさが全く評価されない時代です。こういう時代的な精神に流されてはいけません
 聖書は奇妙なことを言っています。

不信の娘よ、いつまでさまようのか。主は地の上に新しい事を創造されたのだ、女が男を保護する事である。エレミヤ31:22口語訳

 女が男を保護する? どうしたことでしょうか。しかし、今はそんな時代に見えます。この奇妙な言葉はその前後にイスラエルの回復の預言があります。終わりの時代にそんな逆転現象が起こるというのでしょうか。事実、そういうケースも今は起こっています。しかし、あまり好ましいことではないでしょう。なお、この言葉は理解が難しいらしく、新改訳聖書はまったくとんちんかんな訳をしています。

裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか。主は、この国に、一つの新しい事を創造される。ひとりの女がひとりの男を抱こう。新改訳

 しかし、新共同訳、KJV、TEVともに口語訳とほぼ同じ訳をしているので、間違いだと思います。それこそ何がなんだかわからない訳ですね。
 女性の方々よ、あなたの幸せは、夫が幸せなとき保証されるのです。夫を壊してしまってはなんにもなりません。聖書に服従しましょう。男性に従いましょう。お幸せに。