ホームページ・メッセージ060101            小 石  泉

キリストの凱旋


    門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
      栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。
    門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
   この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。
詩篇24:7〜10















この写真はイタリヤのミラノにある凱旋門です。イタリヤだけでなくヨーロッパには凱旋門が無数にあります。塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読むと、ローマでは戦争の度毎に、勝利した場合には、その指揮官(多くの場合最高執政官)が部隊を連ねて凱旋行進をした様子が書かれています。その行列には敵の王や高官、分捕り物、戦争のシーンを描いたパネルなども行進しました。

神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。コロサイ2:14〜15

 人間は神様の戒めに背いて禁断の木の実を食べ、その瞬間から反逆の先輩サタンの虜となってしまいました。この御言葉の「もろもろの支配と権威」というのはサタンの王国の支配者たち、高位の堕落天使たちを表しているそうです。
 間もなく、キリストが天の凱旋門を天使の軍団と聖徒たちを引き連れて行進されます。そのとき、忌まわしい、訴えるもの(サタンという名前の意味)、誘惑者たち、苦しみや嘆きの源、あらゆる罪悪の発案者たちもこの行列のさらし者として加えられるでしょう。
 新しい年2006年はどんな年になるのでしょうか。2005年のように嘆かわしい犯罪や大きな災害、戦争が起きないことを願います。
 しかし、仮に大きな艱難にあっても私たちは恐れません。

神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。Uコリント1:4

 阪神淡路大震災のとき多くの教会が会堂を被災者に開放し、食事を用意するなどして近隣の人々に感謝されたといいます。私たちは自分たちだけが守られるのではなく、「あらゆる患難の中にある人々を慰めることができる」者たちなのです。

兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。1:8〜10

 どんな危険の中にあっても、クリスチャンには神の御手があります。神様はその忠実な僕たちを空しく危険や艱難の中に置き去りにはしないのです。また、たとえ死ぬことがあってもそれは神の定められたご計画の中にあるのですから平安に包まれるでしょう。

主の聖徒の死はそのみ前において尊い。詩篇116:15

 神の聖徒たちの死は神ご自身が尊く扱われるのです。

「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。Uコリント4:6〜11

 骨董品は別として、器の目的は中に何かを入れることであって、器そのものには価値は無いのです。キリストの栄光を入れる器だからこそ価値があるのです。私たちは弱く壊れやすい土の器です。しかし、「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」のです。

すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。4:15〜18

 今年、何があっても「感謝に満ちあふれ」、「神の栄光」を表すことが出来ますように。外なる人、肉体と精神は滅びます。(聖書は肉という場合、精神も意味します)、しかし、内なる人は毎日、毎日、新しくされて行きます。たとえ、地震が起ころうと、戦争が始まろうと、私たちは見えないもの、永遠に続くものに目を注ぎます。神の栄光を入れて運ぶものとして生きます。

すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。ローマ14:7〜8

 私たちは自分のために生きる者ではなく、主のために生きる者です。キリストの凱旋式のときに、キリストの一番身近なところを歩む親衛隊のように、勇ましく、雄雄しく、高らかに勝利の歌声を挙げましょう。「私たちは主のものです!」と。