メッセージ051225                  小 石  泉

メシヤ預言


 ユダヤ人にとって大切な「メシヤ預言」というものがありました。メシヤとは油注がれたものという意味で王と預言者も指します。キリストは王であり預言者であり祭司でした。
 「メシヤ預言」には二つの種類があります。一つはいろいろな、実際的な出来事を通しての預言です、もう一つは直接的な言葉としての預言です。
 このうちの前者は、例えば、

1. ノアの箱舟・・・・・・その中に入れば世界的な破滅から守られた
2. アブラハムがイサクを捧げようとした事件・・・神が十字架の上で一人子を与えた
3. 出エジプト・・・・・・奴隷の身分からの救出
4. 神殿と契約の箱・・・・キリストそのものを表す
5. 十戒と祭司と犠牲・・・戒めと儀式を通してのキリスト
6. 王と預言者・・・・・・メシヤの姿
その他にも、細かく見て行けばきりがありません。
 一方、後者の、直接的な言葉による預言も沢山あります。

1.その方は特別な誕生をする

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。イザヤ9:6〜7

 上の言葉はその内でも最も有名な言葉です。700年も前に、メシヤが赤子として生まれるということが預言されています。もちろん人は必ず赤子として生まれるわけですが、メシヤに関しては特別にその生誕に特徴がありました。また、この方はその後の歴史の中で「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれました。しかし、「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる」という預言はまだ実現していません。ユダヤ人はこの前半の赤子として生まれた部分はあまり重きを置かないで、後半部分だけを期待しているのでしょう。

それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。7:14

 これもメシヤ預言でした。ここに「おとめが」とありますが、原語では処女という意味があるのかもしれません。もしそれが普通の妊娠なら、「若妻が」とか、「若い母が」とかいうはずです。この場合、結婚したという印象を受けないのです。もちろん形式的にはヨセフと結婚しましたが、イエス様が生まれるまで夫婦関係は無かったと聖書は言っています。これは歴史上、常に非難と嘲笑の的になりました。私はカトリック教会がマリヤを神格化したのは、処女降誕を信じさせるためだったのではないかと思います。
 しかし、そんな無理をしなくても、近年になって生物は雌雄の関係なしでも子供が生まれることが判ってきました。卵子は特定の刺激を与えれば細胞分裂を起こすからです。その名、インマヌエルとは「神がともに居る」という意味です。

2.その方は神と人との仲介者である

 メシヤ預言の中でも最も早い時期に、明確に救い主、神と人との仲介者ということを預言したのはヨブです。一般にヨブ記を苦難からの救いという面だけから捉えますが、それよりヨブの、メシヤへの待望と預言は重要だと私は思います。

神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。ヨブ9:32〜33


今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。ヨブ16:19

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
ヨブ19:25


 これを見ると、ヨブという人の中に仲介者キリストが次第に明確になっていくことが判ります。神と人との間に、仲介者が必要だという考えは日本人にはなかなか理解できないことかもしれません。しかし、私たちは仲介者や仲裁者、弁護士が必要なのです。
 その上、この方は自分自身が神と人との和解のための犠牲となられました。

3.その方は犠牲の小羊となる

そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。また、主が約束どおりに与えてくださる地にはいるとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。出エジプト記12:21〜27

 モーセがエジプトからイスラエルの民を解放するとき、神様はエジプトの長男を皆殺しにしました。その時、家の入り口の鴨居と柱に羊の血を塗ってある家の前を死の天使が過ぎ越すと言われました。この儀式を、その後、イスラエル民族は絶えることなく守って来ました。これもメシヤ預言です。
 イエス様が十字架におかかりになったときは過ぎ越しの祭りの日でした。家々では羊が殺され、その血が門に塗られていたのです。正にキリストは神の裁きが私たちの前を過ぎこすために、犠牲の羊となられたのです。
 この儀式はその後、神殿の“御神体”ともいうべき「契約の箱」に注がれる羊の血としても表されました。その黄金のふたを贖罪所といいました。

4.その方は正確に預言されていた

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。イザヤ53:1〜12


 普通に読めば、それはイエス・キリストを見た人の印象を書いたものと思うでしょう。しかし、これはキリストの生まれる700年も前に書かれたものなのです。これがあまりにも真に迫っているので、近代になってイザヤという人はキリストの時代の人だったという学説が生まれました。しかし、それは非常にナンセンスで、ユダヤ人が2000年間守ってきた旧約聖書は変更されていません。また、60年ほど前に発見された死海写本にはこのイザヤ書があり、その年代測定はキリスト以前であることを証明しています。
 この預言はほとんど説明を要しないでしょう。キリストを遠い時代に見ていた人の、鮮やかな証言です。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
 神の御子は王家の黄金のベッドで絹のシーツに包まれることなく、馬小屋の飼い葉おけの中に寝ていました。その生涯は漂泊の日々で、人々はこの方が神の子、約束のメシヤ、とは思えなかったのです。そして最後には極悪人の受ける十字架の死刑を科せられました。
しかし、「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼が荷」ったのです。あなたを神と和解させるためにこの方は生まれ、あなた罪が許されるためにこの方は死にました。そして、復活され、再び来られます。
 クリスマスはこの方の誕生を神に感謝する日なのです。