メッセージ051204                 小 石  泉

与える者になろう


与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。ルカ6:38

わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである。使徒20:35


 与える、これはクリスチャンの究極の祝福です。私たちは祈って与えられたという体験は、自分でも経験したし、よく耳にします。しかし、与えることによる祝福は、元来が人に語るものではないので耳にしません。
 与えることは、人を勝利者にします。たとえどんなに貧しくとも、与えるならあなたは、誰よりも富めるものです。愛を、富を、助けを、励ましを、慰めを、それを必要としている人に。では、どの位、与えるべきでしょうか。

すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。マタイ19:16〜22

 この箇所はお金持ちの人には大きなつまづきになるでしょう。この物語の主題は、「永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらよいか」であって、財産を捨てることではありません。「永遠の命を得るには、律法を守りなさい」とイエスさまは言われたのです。この青年は「それは守っています」と答えました。すると「あなたの全財産を売り払って貧しい人々に与えなさい」と言われました。もしこの青年が貧しい人だったら、イエス様はこういう答えを言ったでしょうか。“無い袖は振れない”という日本のことわざがありますが、何も持っていなかったら、そうは言わなかったでしょう。この青年にとって、あるものを捨てることは出来ませんでした。豊かさというものは時には真理の追究や、永遠の命を得るにはさまたげとなります。どうしてもそれに捕らわれるからです。私(私たち?)のように貧しいものだったら、それほど抵抗は無かったでしょう。しかし、この青年にとって親から受け継いだ遺産を無くすことは、親戚や世間の目が気になります。しかし、多くの金持ちの息子が親の財産を湯水のように使って無くすという話はよくあることです。世の中では空しいことのためには財産を無くすことはあっても、永遠の命のためには無くせないのです。その後、十字架のイエス様を見て、この青年はどう思ったでしょうか。
 実は、この後、イエス様が十字架についてから約40年後にユダヤはローマによって完全に滅ぼされ、全てのユダヤ人がパレスチナの地から追放されます。この青年がいくつになっていたか分かりませんが。全てを無くしたでしょう。
 与えることは富の多さに比例しません。むしろ逆かもしれません。私は富とか財産というのは、使い道の無い金のことだと思います。住宅のための貯金とか、老後のためにとか、学資のために蓄えているわずかな金額が富とはいえないでしょう。
 しかし、ここに本当に何も無いのに与えた人がいます。

ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(中略)彼に次のような主のことばがあった。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。T列王記17:1〜16

 これは有名な話ですが、この話は非常に限定的な環境の中で起こったことです。神に命じられたエリヤは異邦人のやもめのところに行きましたが、そこでやもめと子供の最後のパンを要求せよと神様は命じられました。貧しい家にパンを焼くにおいがします。飢えた子供たちはパンが食べられると期待に腹を鳴らしています。そのパンをエリヤは食べなければならなかったのです。なんとつらい仕事でしょうか。しかし、その結果、やもめの家にはかめの粉と壜の油は付きませんでした。
 この話はよく誤解されていますが、間違えないでください、この話の主人公はやもめではなくエリヤです。神様はエリヤからプライドを取り去ろうとされたのです。最初はカラスに養われ、今度はやもめに養われる。その意味ではやもめの祝福は副産物です。
 しかし、確かに、神様はやもめの信仰を試したのでしょう。異邦人ですが、恐らくこのやもめはユダヤの神を信じていたのでしょう。そして、彼女の従順と信仰によって、驚くべき恵みが現れました。
 ここに与えるということの究極の姿があります。子供たちのパンを神の命令に従って与えるとき数千、数万倍になって戻ってくる。イエス様が子供の持っていた5つのパンと2匹の魚で5000人を養った話にも似ています。
 今、多くの災害があります。スマトラ沖地震、ニューオーリーンズ、中越地震、それらの災害にも多くの与えるチャンスがあります。貧しいフイリッピンの子供たち。北朝鮮の難民、貧民。私たちが何気なく使ってしまう1000円で、北朝鮮では5人家族が一ヶ月生活できます。私は来年1月にも中国と北朝鮮の国境地帯に行きます。北朝鮮からの脱北者を援助し、内部に食料や衣料品を届ける人々を支援するために。
 与えましょう。日本は満ち足りているのです。与えることはさらに多くの祝福を受け取ることになります。