メッセージ051127                    小 石  泉

美しい宗教


 富士山は登るより眺めるほうが美しい。物事は、ある時、ちょっと遠くから見ると分かることがあります。私は今、「マルクスとサタン」という本を翻訳しています。これはかつてルーマニアで迫害に会い、激しい拷問を受け、当時のアメリカ大統領ニクソンの要請で釈放され、アメリカに渡ったリチャード・ウオンブラント師の書いたものです。師はすでに故人となられましたが、30年ほど前に日本に来られたとき、私はそのお話を聞いたことがあります。体中に拷問の傷跡がまだ残っていたときです。その後、共産主義を研究されてこのような本を書かれたのでしょう。
 実を言うと、これは本当にいやな仕事です。元々、英語は得意でないし、内容があまりにも醜悪で耐えられないのです。しかし、ある人からこれはどうしても日本で翻訳出版しなければならない本だといわれて一生懸命取り組んでいます。
 翻訳していて、あまりにも暗くうんざりすることばかりですが、逆に私たちの信仰のすばらしさが輝いて来るので、心に喜びが増してきます。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。ガラテヤ5:22〜23(口語訳)

 このように良く知っている御言葉でも、今の私には圧倒的な輝きとなって見えています。私たちの信仰する宗教は、何と美しいのでしょう! こんな美しい宗教は他にあるでしょうか。私は仏教の経典やイスラム教のコーランや共産党宣言を全て読んだわけではありませんが、聖書に勝る美しい経典はないと思います。
 私たちの宗教の神は、その性質を「愛」だと宣言しています。神は愛によって宇宙を創造し、愛によって保っておられます。もし宇宙が神によって創造されたのではなく、ただ漠然とそこにあったとするなら、一体、何のためにあるのでしょうか。それは何と無意味で空虚な空間でしょうか。神が愛であるという思想(と呼ぶのはおかしいのですが)は、人間が決して思いつかないことだと思います。それは驚嘆すべき思想です。もし、愛でなく、無関心、憎しみ、気まま、だったら、宇宙は混乱と無秩序と破壊と悲惨に覆われていたでしょう。宇宙の中心、根源が「愛」であるとは何と平安で感謝なことでしょう。
 また、キリストは罪に囚われた私たちを救うために、御自分の命を「犠牲」にしてくださいました。これも何という美しい思想でしょうか。罪ある人のために、罪なき神の御子が、身代わりの犠牲として十字架にかかってくださった。それによって信じるものは罪許され永遠の命を持つ。これ以上に美しい宗教があったら教えてください。この宗教はその創設者が自らの命を捨てて、人を愛することを実行し、さらに信じるものへの最大の戒めとし、互いを愛することを命じているのです。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
ヨハネ15:9〜12


人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 ヨハネ15:9〜13

 ソヴィエトの強い指導者だったスターリンは、
   「最大の喜びは誰かの友情を、そいつが君の胸に頭を埋めるまで植えつけよ、
   そしてそいつの背中に短剣を突き立てることだ、これ以上の楽しみはない。」
と言いました。何と恐ろしい言葉でしょうか。スターリンの言葉と上の御言葉を比べてみてください。友を殺すことが無上の楽しみだということと、友のために命を捨てることが愛だということの天地の違いを見てください。
 このように共産主義者は決して、平安もなく喜びも無い人生を送り、絶望のうちに死んで行きました。いつも裏切りにおびえ、殺し、殺され、恐怖と憎悪と倒錯のうちに生きました。どうしてそのような道を選んだのでしょうか、私には理解できません。
 彼らが得たものはしばらくの富と名声と権力ですが、それとて、しばしば途中で失われたり、殺されたりしました。共産主義によって世界で数億人が殺されました。
 どうしてこのような危険で恐ろしい思想が、世界人口の半分も支配するようになったのでしょうか。実は共産主義の指導者のほとんどはサタン礼拝者だったのです。ウオンブラント師はその証拠をいくつも挙げています。サタン礼拝者にとっては偽り、憎しみ、不正、穢れが常に彼らの信仰でした。一言で言えば不真実が彼らの信仰の基準なのです。
 私たちの信仰は全く正反対のものです。

真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。ピリピ4:8

 「真実」が私たちの信仰の基準です。私たちがすでにそのような水準にあるというのではありませんが、私たちの宗教がこのような枠組みによって成り立っているということを、もっと感謝しなければなりません。
 ある結婚式が予定されていました。ところがその数日前に身内の人が死んだのです。私は関係者に聞かれました、「キリスト教ではこういう場合は結婚式をしてはならないのですか?」 私は「いいえ、全くかまいません、むしろ故人が喜ぶでしょう」と答えました。私たちの宗教には、いわゆる“忌み事”というのはありません。あるとすればサタン的なもの悪霊によるものなどでしょう。
  私たちの信仰は「謙遜」を求めます。それは主イエスが謙遜だったからです。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。ピリピ2:6〜11

 “神が謙遜である”という宗教は珍しい宗教ではないでしょうか。キリストの御性質は謙遜でした。謙遜はこの信仰の重大な要素ですが、案外、理解されていない真理です。
 ソビエト国家の創立者レーニンは彼の死の床でこう言いました。
「私は大きな間違いを犯した。私の悪夢は、私がおびただしい犠牲者の血の
大洋の中に、失われたように思えることだ。もう後戻りするには遅すぎる。
わが国、ロシアを救うにはアッシジのフランシスのような人々が必要だった
のだ。10人の彼のような人々がロシアを救うだろう。」
 レーニンは謙遜の実践者アッシジのフランシスを最後に賞賛して死にましたが、遅すぎました。彼の誤った指導によって何百万人の命が失われたことでしょう。
 さらに私たちの信仰は「永遠」を約束します。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16

 永遠、それは人間だけが知ることができるものです。そしてそれが確実にあるとするなら、そこにこそ「希望」があります。どんな平安で豊かで満ち足りた人生でも死んで、無くなってしまうなら、それは本当に空しい。
 私たちの信仰には永遠の命が約束されています。ある人々は永遠なんかあるものかと言い、ある人々はあざ笑いますが、人は必ず死ぬのです。その先は誰も知りません。ただ神の御子だけが知っています。主イエスは永遠の命を与えると約束されました。うそでも信じたいと思いませんか? そしてこれは決してうそではない。
 こうして、愛、犠牲、真実、謙遜、永遠、希望。この6つだけでも、何と美しいことが約束されているのでしょう。共産主義者やサタニストの冷たく、暗く、恐ろしく、空しい信仰と比べるなら本当にこの信仰は輝いています。
 キリスト教って美しい! そして信じるあなたも美しい!