ホームページ・メッセージ051120             小 石  泉

愛とわがまま


 もう本当にいやになってしまうのですが、またしても恐ろしい殺人事件が起きました。
自分に関心を持ってくれないからといって、相手を殺してしまうとは、なんと言う、自己中心、最悪のわがままでしょうか。自分の欲望と愛を完全に取り違えているのです。

あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。ヤコブ4:1〜3

 今に日本の刑務所は、こんな自己中心、わがまま勝手な殺人者で一杯になってしまうのではないかと恐れます。
 聖書は愛について明確に語っています。これは愛というものを規定した歴史的にも世界的に見ても珍しい文章です。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。Tコリント13:4〜7

 一言で言えば、愛は他人への思いやりです。自分の思い通りにならないからといって、相手を殺してしまうなんて、愛の最も対極にあることです。
 何度も話したことがあるのですが、昔、「コレクター」という映画を見たことがあります。それは蝶の収集をしている男が、好みの女性を収集し始めるのです。誘拐し、地下室に監禁して「私を愛せ」と命じます。女性たちは恐ろしくて「愛する」というのですが、彼は「嘘だ」と言って殺してしまうのです。映画は最後にその主人公が逮捕されて終わりますが、なんとも後味の悪い映画でした。しかし、ここに描かれているのは愛というものの正反対の姿です。愛というものは決して強制されてはならないのです。
 聖書には愛というものの本当の姿が描かれています。

エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。雅歌2:7

 愛は「おのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともし」てはならないのです。愛はかもしかや雌鹿のように、臆病で、逃げることでしか自分を防衛できないものなのですから、じっと忍耐して待たなければならないのです。ここで私は「愛は」と言いましたが、本当は「女性は」というべきなのでしょう。しかし、近頃は少しばかり・・・かなり・・・女性も強くなっているので・・・・・。
 ここでもう一度、神様の愛を学びましょう。これは私が何度も何度も話すことなのですが、大変重要なことなのでもう一度お話します。
 それは創世記のエデンの園に植えられた善悪を知る木のことです。

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。創世記2:16〜17

 神様はエデンの園のどの木からも取って食べて良いが、ある一本の木からは取って食べてはならないと命じられました。それは「善悪を知る木」とありますから、本当の植物だったのか、比喩だったのかわかりません。よく言われるりんごの木というのは間違いです。
 
 ちょっと脱線しますが、この木は別名グノーシス(Gnosis英語ではノシスと発音する)と言い、特別な知恵や奥義を表す言葉です。サタン礼拝者はこの言葉を特別に敬いますが、私は次のような言葉がその本来の意味ではないかと思います。

ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。ローマ11:33

むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。Uコリント2:7

それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、エペソ3:10

キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。コロサイ2:3
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。Tコリント2:7

たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。Tコリント13:2

 サタン礼拝者たちは、この本来の意味をゆがめて、あたかも自分たちが何か特別なことを知っているかのように、このグノーシスという言葉を連発するのですが、それはパウロ先生が言うような空想話です。

果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。Tテモテ1:4 

俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。4:7 

真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。Uテモテ4:4 

ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。
テトス1:14


 スターウオーズ、ハリーポッター、J.R.R.トールキンの指輪物語、C.S.ルイスの作品にその片鱗がうかがえます。ちなみにアップルコンピューターのマーク、一部がかじられたりんごはこのグノーシス(サタニストの意味での)を表しています。

 さて、そのような木を神様はなぜエデンに植えたのでしょうか。この木の実を取って食べるときっと死ぬというのですから、言い換えれば、猛毒の木だったわけです。事実、その木の実を食べたために、アダムとエバはエデンを追われ、その後の人類はそこから来る原罪によって大いに苦しむことになったのです。これはとても奇妙なことです。親は自分の子供のそばから危険なものを取り除くものです。それなのに神様はわざわざエデンにその木を植えたのです。植えなければ人類は、永遠に豊かで平安なエデンに住み続けたことでしょうに。
 実はそれは「神は愛」だからなのです。えー! どうして? 
 この木の実を食べるか食べないかは人間に任されています。そこに人間の完全な自由があります。エデンがどんなにすばらしいところでも、神様の道しか選べないなら、そこには人間の完全な自由はありません。あのコレクターのように、その人しか選べない状況には本当の愛は生まれません。本当の愛は相手が自分を拒絶することができる自由の中でだけ生まれてくるのです。これが愛の原則です。
 Tヨハネ4:8に「神は愛である」とありますが、愛である神は、人を愛の原則によって愛することを望まれました。そこでアダムとエバが御自分の命令を拒絶する道を備えておられたのです。
 言い換えれば、神様は愛という分野において、人間を自分と全く対等な立場に置かれたのです。それは人間にとって最も尊い賜物「自由」を与えたということです。だから自由は奪われてはならないのです。

それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。ガラテヤ2:4

自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。5:1

兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。5:13


  イエス・キリストが十字架にお掛りになったのは私たちを、罪と悪魔の束縛から解放して、本当の自由を与えるためです。そして心から喜んで自発的に神を愛するためです。
 最近、この愛の原則がわからないで、自分の欲望を押し付けるという、はき違いえた愛によって様々な事件が起きているのです。サタンは常に自由を奪おうとしますから、それらの人々の行為はサタンに似たものなのです。
 少しでも本当の愛を教えたいものです。