ホームページ・メッセージ051113             小 石  泉
執り成し(とりなし)の時


 私たちは、最近、あまりにも驚くべき事件が日常茶飯に起こるので、随分、無感覚になっているのですが、今度の母親を毒殺しようとした娘の事件には驚きましたね。誰でも感じたのは「日本はどうなってしまったのだろう」という思いではないでしょうか。母と子、本来なら愛情で結ばれるはずの関係が、どうしてそこまでゆがんでしまったのか。
 時々、こういう話をすると、「教会でまでそんな話を聞きたくない」と言われることがあります。しかし、ちょっと待ってください、教会はこの世からかけ離れて、美しい清い話だけをしていればいいのでしょうか。教会では、「ひなげしさんが、すずらんさんに、言いました、すみれさんはどうしているかしら?」という様な話が聞きたいのですか? 
 教会はこの世の逃れ場ではなく、癒し、解決を与えるべき場所ではないのですか。このごろは資本主義的教会が流行るようで人数と教会堂の大きさを競うだけになっていますが。
 歴史上、世界が混乱と暴虐に満ちたとき、神は介入されました。

時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。創世記6:11〜13

 少なくとも、一度、世界は滅亡したと聖書は言います。数百万か数千万か、当時、世界の人口がどれぐらいあったか判りませんが、“ノアの洪水”によってその99.99%は死に絶え、ノアとその家族(恐らくは幾人かの僕も)だけが生き残ったのです。
 そして、そのわずかな人々から増えた人々がまたしても暴虐で地を満たして行きました。それはアブラハムという敬虔な人物の隣で起きていました。(ちなみにノアとアブラハムは生きた時間が少しだけ重なります。つまりアブラハムはノアに会おうと思えば会えたのです。)

その人々はそこを立ってソドムの方に向かったので、アブラハムは彼らを見送って共に行った。時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。18:16〜22

 ソドムとゴモラは罪深い町の代名詞のようになっていますが、今の世界の多くの都市はそれ以下でしょうか。誰でもそれ以上だということを知っているのです。
 神はソドムとゴモラを滅ぼすと決められました。その時、アブラハムは神の前に立ちふさがったのです。執り成したのです。

 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。18:17〜32


 アブラハムは神に尋ねます。ソドムとゴモラに、もし五十人の正しい人がいたら、滅ぼしますか? 滅ぼさない。では、四十五人では、三十人、二十人、ついに十人まで。アブラハムの執拗な執り成しに、神は忍耐強く答えられました。アブラハムはそこに十人も居ないことを知っていたのかもしれません。ついに、彼もあきらめました。そこにはアブラハムの甥ロトしか正しい人はいなかったのです。

ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。Uペテロ2:7

 今、多くのアブラハムが必要です。イエス様は旧約聖書の偉人たちより、新約の聖徒たちのほうが偉大だと言っています。

あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。マタイ11:11

 そして今、神様はあなたや私しか執り成す人々を持っていないのです。だからあなたも私も、アブラハムでありエリヤでありエレミヤなのです。
 イエス様は、終わりの時代がそのときと同じようだろうと言っておられます。

人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。マタイ24:37〜39

 アブラハムに現れた御使いの一人は神ご自身でした。しかし、聖書は、神は目に見えない方だといっていますから、これは世に現れる以前のイエス様だと思われます。

神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。Tテモテ6:16

 その同じイエス様がもう一度現れるときが迫っています。再び“ノアの洪水”と“ソドムとゴモラ”が起ころうとしているのです。だからアブラハムが執拗に神に執り成したように、私たちも執り成すべきです。世界のため、日本のため。そんな大きなことができなくても、町の周りの人々のため、友人のため、家族のため、夫のため、妻のため、子供ために。一人一人名を挙げて。執拗に。
 そして、私がいつも思うのは犯罪を犯してしまった人々です。彼らは憎むべき罪を犯したのです。しかし、神を知らず、誰も友人もいないのですから、誰かが執り成さなければなりません。方法があればその人々に会って聖書を手渡し、「祈っていますよ」と言って上げたいものです。私は実際に何度か試みてみたのですが、日本の警察は許可してくれません。方法はないものでしょうか。