ホームページ・メッセージ051106 小 石 泉
また来て、あなたがたを迎えよう
−キリストの再臨の目的−
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。ヨハネ14:1〜4
キリストの再臨。これはキリスト教の最大の希望です。「間もなく、あのイエス・キリストが再びこの世界に来られる」という、一般の人から見たら荒唐無稽、誇大妄想、正気の沙汰ではない話が、“まともなクリスチャン”が本気で信じている希望なのです。ですからキリスト教とはまだ完結していない宗教なのです。このことを信じていない自称クリスチャンもいますが、私はこういう人々は全く相手にしません。
そして、この箇所はイエス様がご自身の口で語った、ほとんど唯一の箇所です。
他にも
「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。」マタイ25:31〜33
という箇所がありますがこれはむしろ最後の審判の場面のような気がします。
この他にも、
「こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』。」使徒行伝1:9〜11
という箇所がありますが、これは天使の言葉です。それにしても、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」という言葉は衝撃的です。主イエスはもう一度、エルサレムのオリーブ山に「同じ有様で」帰ってくるというのですから。
この言葉を裏付けるように、旧約聖書には驚くべき言葉があります。
「見よ、主の日が来る。(中略)その時、主は出てきて、いくさの日にみずから戦われる時のように、それらの国びとと戦われる。その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。そしてオリブ山は、非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂け、その山の半ばは北に、半ばは南に移り、わが山の谷はふさがれる。裂けた山の谷が、そのかたわらに接触するからである。そして、あなたがたはユダの王ウジヤの世に、地震を避けて逃げたように逃げる。こうして、あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者と共にこられる。」ゼカリヤ14:1〜5
これはまだキリストが来たことのない時に書かれた預言ですが、何と、前の天使の言葉と合わせて見ると、最初の来臨を通り越して、再臨を表しているとしか思えないのです。オリーブ山が二つに裂けるという預言ですが、近年、ここに高層ビルのホテルを建てる計画がありました。しかし、地質調査の結果、そこにはすぐにでも裂ける不安定な断層があることが判り、そのホテルは低層のがっしりしたものに変更されました。エルサレムに行ったときに見たことがあります。
また、「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。」黙示録20:4〜5
という箇所から、再臨したキリストがクリスチャンと共に千年間、世界を支配するという考えが生まれました。キリストの再臨はいわば世直し、世界を浄化し、正義と愛による千年の支配(千年王国)という期待が生まれ、私も長年そのことを信じてきました。しかし、もう一度最初のイエス様の言葉を思い出してください。イエス様は、ご自身の口で再臨の目的を明確に語っています。
まず、世を去って天に帰っていかれるのは「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」と言っておられます。さらに帰ってくるのは「場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。」と言っておられるのです。全ての関心は弟子たち、すなわちクリスチャン、教会に向けられています。
イエス様は花嫁なる教会を迎えに来られるのです。
「イサクは夕暮、野に出て歩いていたが、目をあげて、らくだの来るのを見た。リベカは目をあげてイサクを見、らくだからおりて、しもべに言った、「わたしたちに向かって、野を歩いて来るあの人はだれでしょう」。しもべは言った、「あれはわたしの主人です」。するとリベカは、被衣で身をおおった。しもべは自分がしたことのすべてをイサクに話した。イサクはリベカを天幕に連れて行き、リベカをめとって妻とし、彼女を愛した。こうしてイサクは母の死後、慰めを得た。」創世記24:63〜67
ここは旧約聖書の偉人アブラハムが自分の息子のために嫁をめとろうと、忠実な僕エリエゼルに嫁を探してくるように命じ、エリエゼルは神様の助けによって美しいリベカという娘を探し当て、ご主人の息子のために連れてきた物語です。イサクは嫁を待ちかねて夕暮れ、野に出て胸をときめかせて待っていたのです。この美しい物語は、アブラハムが神、イサクが御子イエス、エリエゼルが聖霊、リベカが教会の姿として知られています。
そして、聖書の最後には御子の花嫁が現れます。
「最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、『さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう』。この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。」黙示録21:9〜11
この後には壮麗な聖都エルサレムの姿が書かれています。
さて、頭を整理してみましょう。イエス様は「あなたがたを迎えに来る」ことが再臨の目的だと言われました。そして聖書の最後、黙示録の最後はその花嫁である教会、新しいエルサレムが天から下って来ました。聖書はその後には新天新地のことが少しだけ書かれて終わっています。
聖書の最初の書物、創世記は天地の創造と人間の創造に始まり、最後の書物、黙示録では御子の花嫁である教会、そして新しい天と新しい地で終わっているのです。聖書の目的そのものが、花嫁なる教会と御子との婚姻であるといっても過言ではないでしょう。
神様と御子の関心は第一に教会であり、イサクさんの期待がリベカだったように、イエス様の関心は教会なのです。
もう一度言います。キリストの再臨、その第一の目的は「あなたがた」すなわち教会を迎えに来ることなのです。それを忘れてはなりません。
注:先週のメッセージで人間の完全が動的なものと申しましたが、神ご自身の完全は初めから完全であり、次第に出来上がるものではないことは言うまでもありません。原語的に違うのかどうかは判りませんが、言語の範囲に二つの意味があると考えます。