メッセージ051030 小 石 泉
神の前での完全
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。マタイ5:48
この御言葉に当惑を感じるのは私だけでしょうか。一体、私たちは完全になどなれるのでしょうか。もう人生の終わりに向かっているのに、私に関する限り絶望的です。では、なぜこんな難しいことが要求されているのでしょうか。
この完全という言葉は原語ではテレイオス、英語のキング・ジェームス・ヴァージョンでは perfect となっていますが、ヤングのコンコーダンスでは Endedと言う言葉が使われています。 終わったという意味です。完成した、完了したということです。perfectとか、日本語で完全というと、初めから欠陥のない完成品という感じがします。しかし、ここにいう完全とはもっと動的なもの「完成に向かって進んだ結果、成し遂げた」というニューアンスを感じます。神の前で完全な人であるということは、生まれつき欠陥のない人という意味ではなく完成に向かって進んでいる人のことと言えないでしょうか。事実、パウロ先生ですら次のように言っているのです。
兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ピリピ3:13〜15
「後ろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走」っている人が完全な人なのです。マラソンで言うなら完走した人はもちろんですが、ゴール目指して走っている人、もっと言えば参加している人、走りつづけている人が完全な人なのです。
あなたの信仰の歩みを止めないでください。不完全で、しばしば落胆し、自分に失望しても、決してその歩みを止めてはなりません。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。Uコリント12:9
神の恵みは「弱さのうちに完全に現れる」のです。パウロ先生は「大いに喜んで私の弱さを誇る」とさえ言っています。もっとも、この言葉はパウロ先生が言うから、すばらしいのであって、われわれが言うと単なる負け惜しみにしか聞こえないのが悲しいですね。
神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった。T列王6:7
ソロモンが神殿を建てたとき、全ての石が設計図通りに石切り場で完全に作られました。ですから建設の現場ではただ運んできた石を組み上げるだけで、その場で削ったり、切ったりすることはありませんでした。そのために神殿の現場には物音がせず、くずや切れ端が残ることもありませんでした。
私たちが組み合わされて、神の家を建てあげるとき、私たちは石切り場の作業場で完全になるまで削られたり、切り取られたりします。しかし、一旦、神の家に集ったときにはそこには不協和音や切りくずがあってはならないのです。これは理想の教会形成と言えるでしょう。ああ、なんと神聖な神殿である教会でさまざまな物音がすることでしょう。きしむ音、ぶつかる音。いいえ、私たちの教会のことではありませんよ。一般論です。
確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。 Tコリント12:14〜27
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
私たちは器官あるいは肢体であるのですから、体の全てを完全に持っているわけではありません。私たちは部品として完全であればいいのです。あなたが他の人の能力や賜物を持っていなくても、あなたにしかない能力や賜物があるはずなのです。キリストが完全なのはあなたが器官として肢体として完全であればいいのです。自分のパートだけで十分です。
そして、私たちが完全であるために、必要なことは先ほど述べたように、キリストにつながり続けることです。教会に集うこと。信仰生活を続けること。神様を第一にすること。そしていつも祈ること、御言葉に親しむことです。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。ヨハネ15:4
あなたが信仰生活に疲れたなあと思ったら、神様を信じていても良いこと無いなとか、世の人のほうが自由でうらやましいと思ったら、もう一度御言葉に帰りましょう。
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。詩篇19:7
さらに詩篇73篇を読んでください。
間もなく私たちは完全を知るでしょう。それは本当に完全なお方に会うからです。
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。Tコリント13:12
私たちは結局、イエス・キリストによってだけ神の前で完全に成ることが出来るのです。神の前での完全とは、キリストを求め続けることです。
イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。ヘブル13:21