ホームページ・メッセージ051023 小 石 泉
ユダヤ教とキリスト教
最近、埼玉県のある青年から電話を受けました。彼はクリスチャンではありませんが、カトリックとプロテスタントの教会に行って「ユダヤ教とキリスト教のどちらが神に近いのですか」と質問したそうです。すると両方の教会の神父さんも牧師さんも「ユダヤ教です」と答えたと言うのです。私はあきれると同時に、とうとうそこまで行ったかと思いました。それならなぜ、キリスト教をやめてユダヤ教に改宗しないのでしょう。
第二次世界大戦前後のナチスドイツによるユダヤ人の迫害、特に600万人のホロコーストという話から、キリスト教徒がユダヤ人に対して非常に卑屈になりました。今ではユダヤ人への侮辱、差別はアメリカでもドイツでも重大な犯罪とされ、少しの批判も許されなくなりました。実際、私でさえ(私はアンチユダヤの牧師と言うことになっていますが)こうしてユダヤ教を取り上げることさえ、ためらいを感じるほどです。今は、キリスト教会全般にユダヤ人にこびへつらうのが流行、または安全保障となっています。
数年前に私の知っているある牧師が「クリスチャンはユダヤ人のためにある」という文書を発表しているのを読んで、びっくりしたことがあります。内容は、パウロが、
「そこで、わたしは問う、『彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか』。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。」ローマ11:11
と書いていることを敷衍したもののようでした。しかし、この論旨ではローマ書の主張を誤解させる可能性があります。
パウロはユダヤ人から、
「この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。」使徒24:5
と言われるほど憎まれました。恐らく今もローマ書はユダヤ人の最も忌み嫌う書物でしょう。ローマ書はキリスト教の最も中心的な主題、イエスがキリストであった、ユダヤ人の言葉で言えばナザレのヨシュアがメシアであったと言うことを証明することを目的として書かれたものです。ですから新約聖書の中心です。
ローマ書がペテロでなくパウロによって書かれたのは、幼少のころから聖書を学ぶ環境に育ち、論理的な思考と、律法的な生活をしっかりと訓練され、ついには祭司団の期待を一身に担ってキリスト教の迫害者となったパウロこそ最もふさわしい人だったからです。パウロはその中で福音の律法への優位性を説くことを最大の目的としています。ところが最近「福音とユダヤ性の回復」と言う本が出て、律法に帰れというかのような主張が表れたのには驚かされました。私は、今、改めてこのような最も基本的な護教文書を書かなければならないことをむしろ意外だと思います。こんなことはクリスチャンにとって本当は基本の基本、土台の土台だからです。(注:律法とはモーセに与えられた神の定められた戒め。)
この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。ローマ1:2〜4
パウロはローマ書の冒頭でイエス(ヨシュア)が旧約聖書に預言された、キリスト(メシア)であるということを宣言しています。そして、
わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。1:16
と言うことによって、ユダヤ人と異邦人の代表としてのギリシャ人を同列に置いています。
神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。2:6〜11
ここに明確にユダヤ人と異邦人に差別がないと書いているのに、どうしてユダヤ教の方がキリスト教より優れているとか神に近いとかいうのでしょうか。救いと永遠の命は人種ではなく神の御心を行う人に与えられるのです。奇妙なことに私がこのように言うことさえ人種差別と言われるのですから訳がわかりません。
そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。2:12〜15
「律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである」これは律法を誇りとしていたユダヤ人にとって、驚天動地、晴天の霹靂、心の底から湧いてくるのを、とどめようがないほどの憤怒を感じるところでしょう。クリスチャンを迫害していたパウロだけが、このように大胆な言葉を言い得たし、だからこそユダヤ人にとってパウロは許しがたい裏切り者、非国民、忘恩の輩、反逆の民だったことでしょう。
ユダヤ人にとって律法は世界に無二の価値ある宝であり、異邦人が「自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。」などという言葉は耳をふさぎたくなるほど憎むべき汚らわしい言葉のはずです。この言葉の持つ、意外性、危険性、攻撃性はよくよく考えてみなくとも判るはずですが、意外にクリスチャンは無頓着です。これはユダヤ人にとっては心に錐を刺されるほどの痛みを伴う言葉のはずなのです。
だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。2:26〜29
パウロは大胆かつ執拗に律法の真実をあばきます。律法そのものが偶像となっていたユダヤ人に、律法は守らなくては無いと同じことだと言うのです。その上、割礼さえ外面的な象徴に過ぎず、真実を行うなら異邦人であっても「隠れたユダヤ人」であり、「心の割礼」を受けているのだ、と言うのです。パウロが死刑を宣告されたのも無理ならぬことであり、パウロを殺すまでは一切の食事を絶つと誓った暗殺団の思いが痛いほどわかります。
(注:割礼とはユダヤ人のしるしとして男性の性器の皮の一部を切り取る儀式)
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。3:19〜24
律法だけが神に近づくことが出来る道と思っていたユダヤ人にとって、「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」などというパウロの言葉は唖然、呆然とする冒涜に満ちた言葉と映ったことでしょう。「神の前に義とされるのは、イエス・キリストを信じる信仰の義である。」これこそパウロのユダヤ教との決別の宣言であり、これこそ福音と呼ばれるものです。そのためにパウロは命を捧げ、世界は新しい救いの道を発見したのです。そしてそこには「なんらの差別も無い」のです。これが、どんなに激しく、危険で、斬新で、強烈な主張だったか判りますか。
しかし、パウロはユダヤ人を切り捨てたわけではありません。
わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。9:1〜3
これほどの愛を同胞に持っていたのです。彼の祈りはユダヤ人の救いでした。
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。10:1〜3
ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による神の義によって救われるのです。
兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。」11:25 〜26
いつの日かユダヤ人は救われるでしょう。「すべて」とパウロは言っています。ユダヤ人は、その時、“あのナザレのヨシュアがメシアだった”と異口同音に語り合うでしょう。
その日、悔い改めの涙が彼らを覆うでしょう。
わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。ゼカリヤ12:10
これが本当のユダヤ人の回復です。キリスト教がユダヤ教になるのではなく、ユダヤ人がイエス・キリストに帰るのです。それ以外にありません。
この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。使徒4:12