メッセージ051016 小 石 泉
奇跡としるしとわざ
ミラクル・クルーセード、癒しの聖会、ヒーリング・クルーセード。このごろこういう大会が盛んに開かれます。病の癒し、悪霊の追い出し、不思議なこと、神様の現われを見たい、感じたい、経験したい。それは、確かに悪いことではないと思います。しかし、なんだかとても神様がみすぼらしく見えませんか。アラジンの魔法のランプの精のようですね。ご主人様あなたの願いを三つ叶えてあげましょう。何でも仰せのとおりにやって見せましょう。神様が私たちにそう言わなければならないみたいです。
そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。マタイ12:38〜40
パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。 イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」マルコ8:11〜12
昔も今もあまり変わらないと思いませんか。しるしを見せてください。神様は奇跡を行うから神様なのですか? 天地の創造は極限の奇跡ではありませんか? 人が救われて、永遠の命を頂く以上にすばらしい奇跡があるでしょうか。しかし、やはり人は好奇心から奇跡やしるしを求めるのです。
そして主イエスもしるしを行い“わざ”を強調しています。
もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。 しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。ヨハネ10:37〜38
大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。ヨハネ6:2
すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
ヨハネ9:16
このように奇跡やしるしやわざは、時には有効な伝道の方法です。しかし、しるしを行なっても信じないものは信じなかったのです。
イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。ヨハネ12:37
イエス様は弟子たちも自分と同じような、あるいはそれ以上にしるしや奇跡やわざが行なえると約束されました。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。ヨハネ14:12
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」マルコ16:15 〜18
そして弟子たちもイエス様のお約束に従い、大いなるわざを行い福音の宣伝に役立てました。それは確かにすばらしいことです。そして、そのような力は今でも失われず、クリスチャンの権利として与えられています。
実は私も沢山の奇跡を経験してきました。無一文で、教団にも属さず、教会堂も無く、信徒もなく、開拓をはじめて、今では総額で1億円近い会堂と幾人かの信徒を与えられています。その間には神様のわざとしか言えない奇跡を何度も経験しました。また、いやしも体験しました。私の末娘は喘息で深夜に病院に駆け込むことが度々でした。しかし、お医者さんから「このままだとこの子は死にますよ」と言われて、祈祷会で真剣に祈ったときから全く喘息は無くなりました。
神様は神の子の切実な必要、涙の祈りには今も答えられます。しかし、私は神のわざは見世物ではないという固い信念を持っています。「今から奇跡を行うぞ、だから見に来い」とは神様は言われません。そして奇跡やしるしは悪霊でも行うことができます。
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。マタイ24:21〜25
終わりに時代には、多くの「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」と言われているのです。そして今、その通りなっています。実際に多くの選民が惑わされています。
その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。
Uテサロニケ2:8〜12
これから、もっともっとすごい多くのわざが行なわれるでしょう。「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。」とあるからです。病の癒し、死人のよみがえり、天変地異。私たちは「滅びる人」にならないように気をつけねばなりません。これは本当に聖書からの深刻な忠告ですから真剣に聞いてください。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。Tコリント1:18
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。1:21〜25
奇跡としるしとわざは確かに福音の強力な武器ですが、根本的に福音は「愚か」なわざなのです。どんなに奇跡やしるしが現れても、もし敬虔な思いが無ければ、ただサーカスかマジックショーを見ているのと同じです。「ああ、珍しいものを見た、面白かった」で終わりです。イエス様は“本当のわざ”についてこのように言っています。
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」ヨハネ6:26〜29
さらに次のような警告にも注意しましょう。
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」ヨハネ20:29
私は若いころから次の御言葉が好きでした。
あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。イザヤ50:10
神と人との関係は、究極において支配するものとされるものではありません。「信頼」関係なのです。暗く光が無く、希望が失われるようでも、神様は決して私を捨てないという絶対的な信頼が神に喜ばれるのです。その典型的な例はダニエル書にあります。
シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。ダニエル3:16〜18
金の像を拝まなければ、火の燃える炉の中に投げ込むというネブカデネザルの脅迫に対して、若きイスラエルの貴公子たちは、断固としてそれを拒否し、神は私たちを救い出すことが出来ますと告げました。しかし、「たといそうでなくても」私たちは神を他のものに置き換えることはしません。偶像は拝みません。その結果はご存知のとおりです。神は火の炉の中から彼らを救いました。
たとえ、神が目に見えなくても。奇跡やしるしやわざが無くても、神は神。私たちは信仰によって歩みましょう。