メッセージ051009 小 石 泉
砕かれた悔いた心
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。詩篇51:17
何と美しい言葉でしょうか。この世の価値観と、神の世界の価値観の違いが良くわかる言葉ですね。この世では、権力を持ちたい、有名になりたい、金持ちになりたい、美しくなりたい。松井のように、イチローのように、金と名声とを手に入れたい。
神様が尊いと思う人間は、砕かれた、悔いた心の持ち主です。このような人は神に喜ばれ、神はそのような人をさげすまない、言い換えれば、尊ばれるのです。え! 人が神に尊ばれるだって! そんな不遜な。いいえ、謙虚な人は謙虚な人に会うと、そういう人を尊びます。「ああ、何て美しい、砕かれた、悔いた心の持ち主だろう。」神も同じです。その最初の人はエノクでした。「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」創世記5:24 と書かれています。神様はエノクを地上に生かして置くより、自分の身近に置きたいと願われたのです。
次に神様はアブラハムと言う、砕かれた悔いた心の人を見つけました。神様はアブラハムに対して「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」創世記18:17 とさえ言っておられます。まるで最も信頼している親友に隠し事は出来ないと言っているかのようです。事実、アブラハムは「神の友」と呼ばれたのです。
次に神様はモーセという、砕かれた悔いた心の人を見つけました。神様は「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。」出エジプト7:T
と言われました。人が神の代理人に指名されたのです! モーセは「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」民数記12:3 と言われています。
次に神はダビデと言う、砕かれた悔いた心の人を見つけました。ダビデは終生神を求め続けました。これらの人に共通していることですが、神に選ばれて偉大な人となり、権力の座についても決して神を忘れて思い上がることはありませんでした。
その反対のケースはサウル王です。
サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」Tサムエル15:20〜23
サウルは王になる前は謙遜な人でしたが、王になると神を敬わず、神の言葉に従いませんでした。この箇所は絶滅を命じた神の命令に背いて、価値あるものを残しておいた時のことです。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。」それ故に、王位はサウルから取られ、ダビデのものとなりました。その他に、沢山の神の御心に従った人々がいます。しかし、最も砕けた悔いた心の持ち主は、主イエス様でした。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。ピリピ2:6〜12(口語訳)
ルシファーは神のようになろうという野望を抱いて神に反逆し、天の位を追われサタンに成り果てました。しかし、イエス様は神のひとり子の地位を「捨てることが出来ないと考えないで」(新改訳)人の姿を取り、人間となられ、十字架の死に至るまで神に従い通すと言う模範を示されたのです。それだけではありません、キリストは神の御子であられるのに、従順を学び、敬謙ないのりを捧げられたのです。
キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。ヘブル5:7〜10
私はこの言葉を想う時、めまいを感じるほどです。神の御子が「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」たのですか! どんな王よりも偉大で、宇宙の創造主、保有者であるのに! 「お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」! うそでしょう!謙虚と言えば謙虚ですが、どうして? これが謙虚の極致です。私たちはキリストの謙虚の前ではただ頭をたれることが出来るだけです。
人が主に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油をそそぎ、その上に乳香を添え、それを祭司であるアロンの子らのところに持って行きなさい。祭司はこの中から、ひとつかみの小麦粉と、油と、その乳香全部を取り出し、それを記念の部分として、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。その穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。それは主への火によるささげ物の最も聖なるものである。レビ2:1〜3
これはイスラエルの民に神様が命じた儀式、祭礼の中で素祭といわれるものです。それは小麦粉を祭壇の上で焼きました。小麦粉は純白のものです。そのためには小麦を臼で挽き、粉々に砕かなければなりません。小麦粉はキリストの清さの象徴です。キリストも、39回鞭で打たれ、皮膚も肉も裂かれ、十字架の上で命を失われました。キリストは砕かれたのです。その純白の品性は神への尊い捧げ物として捧げられました。
神に喜ばれる人は砕かれた悔いた心を持つ人です。人間の評判や地位や名誉とは何の関係もありません。人に喜ばれる人が、必ずしも神に喜ばれる人でもありません。私が随分前に読んだ詩があります。何に書いてあったのかも忘れてしまいましたし、正確には覚えていないかもしれませんが、それはおおよそ次のようなものでした。
アブラハムはただひとり
ノアはただひとり
モーセはただひとり
ダビデはただひとり
エレミヤはただひとり
パウロはただひとり
ルターはただひとり
神の器は、いつもただひとり
神の前に行くとき、私たちはただひとりで立たなければなりません。人の評価ではなく、神の評価だけが重要です。それはただ、砕かれた悔いた心だけです。