ホームページ・メッセージ051002             小 石  泉

あなたは救われていますか


 ある時、私は、訪ねてきたエホバの証人の婦人に、「あなたは救われていますか」と聞きました。すると彼女は「どうしてそんなことが私にわかるでしょうか、人が救われるかどうかを決めるのはエホバなる神です」と答えました。私は、「いいえ、ローマ人への手紙10:10には『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです』と書かれています。ですからそのとおりにすれば、人は救われるのです」と言いました。するとその婦人は「あなたがたは聖書を文字通り受け取るのですか。聖書は隠された真理なのです」と言います。私は「聖書は文字通り読むべきです。あなた方は、これはケーキだと書いてあるが実はパンです、と言う風に説明しますが、では、なぜ神様は、ケーキはケーキ、パンはパンと書かないのですか」と聞きました。しかし、結局は平行線のままでした。
 救われている人に「あなたは救われていますか?」と聞くと「はい、私は救われています」という答えが返ってくるはずです。それは当然のこととして体験的に判っているのです。しかし、意外にクリスチャンでもこのことが明確でない人がいるものです。そのような場合は二つのケースが考えられます。一つは救われていないのに、自分はクリスチャンだと思っている場合。もう一つは救われているが、しっかりと御言葉による裏づけを教えられていない場合です。
 一体、「救われる」とはどういうことでしょうか。一般の人々に、同じ質問をすると、何か問題があって解決したという風に受け取ります。しかし、聖書の言う救いとはもっと違ったものです。それは、次のことです。
1. キリストの十字架によって自分の罪が贖われた。
2. それによって永遠の命を与えられ、神の子、天国の民とされた。
3. その確信がゆるぎなく自分の中にある。
 キリスト教の救いとは、人間の感情の問題ではなく、法律的な問題なのです。もちろん、それが判れば感情的な喜びとなって現れます。

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。Tヨハネ1:7

 まず、私たちは神の御子の十字架の血によって全ての罪から清められます。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。ヨハネ3:16 〜17

 
御子を信じるなら滅びることなく、永遠の命を持ちます。滅びるとは永遠の命を持たず神から隔離されることです

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。ヨハネ1:12


 御子を信じるなら神の子供とされます。神の子供は当然、神の家(国)に住みます。
多くの場合、これらのことが一度に自分の心に理解されるので、驚きと喜びにあふれて、法律的な問題などとは感じません。
 これらのことが一度に理解されるのは、それが聖霊の力によるからです。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。Tコリント12:3

 芥川龍之介は聖書に親しみ、よく読んでいたようです。しかし、彼は救われずに自殺しました。その枕元に聖書が置かれていたのは有名な話です。芥川は非常に頭脳明晰な人だったと言うことはその作品を読めば分かります。彼ほど賢い人はその後もあまり居なかったのではないでしょうか。しかし、彼が救われなかったのは、聖霊によらなかったからだと思います。あまりにも賢いために、自分の知恵によって理解しようとしたのでしょう。

それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。Tコリント2:5(口語訳)

「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」ゼカリヤ4:6(口語訳)


 さらに、私たちが救われても、中身が変わるには時間が掛かります。あっという間に清くなったなどと言うことはあり得ません。私はそんなことは絶対に認めません。もし誰かが私は間違っている、人は突然清くなるのだと言うなら、どうぞ、そうしてください、でも私は罪深いので、そうはならないのですと申し上げます。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。Uコリント4:16

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
ローマ6:6

しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。コロサイ3:8〜10


 私たちが、救われた者に、すなわち神の国の住人にふさわしくなるにはそれこそ長い苦しい日々が必要です。それは外なる人、古き人が衰えて、内なる人、新しい人が日毎に成長してゆく過程です。たとえその過程の途中でも、救いそのものは有効です。なぜなら、キリストが十字架に掛かられた時に私の救いは完成したからです。ですから、これは法律論だと申し上げるのです。言い換えれば私が救われたのは、私がキリストを信じたときですが、救いの必要要件は2000年前の十字架で満たされているのです。もっと極端に言えば、私は2000年前に救われたのです。
 つまりこういうことです。私が新しい家を建てるとします。そのための資金はすでに支払われています。ローンを組む必要はありません。あとは設計事務所と建築会社を決めて建設するだけです。しかし、実はそれもすでに決まっています。私に必要なことは設計者と建築者である聖霊にゆだねるだけです。
 意外に多くのクリスチャンがこの救いの確信を持たないであいまいな理解のままで信仰生活を送っています。
 もう、随分昔になりますが、ある牧師の息子さんとキリスト教について議論していました。彼は滔滔とキリスト論を語るのですが、私にはさっぱり分かりませんでした。それで私は聞きました、「では聞くが、“君にとって”キリストは何なのかね?」。彼は突然、黙ってしまいました。そして一週間後、再び彼に会ったとき、彼は言いました「小石君、キリストは僕の救い主だよ!」彼は救いを経験したのです。
 私はクリスチャンホームに生まれました。幼少のときから父や母の信仰に育てられました。中学高校と進むにつれて、私は非常に悩むようになりました。神も知っている、キリストも分かっている、でも私は救われていない。19歳で上京し、牧師である兄のところに世話になったのですが、相変わらず、救いが分かりませんでした。私は悩み苦しみました。私の青春は真っ暗闇でした。私は顔つきまで暗く人付き合いの悪い青年でした。(今でもあまり良い方ではありませんが)
 私の内部にはとらえどころの無い悩み、解決できない苦悩があったのです。何度も何度も、大きな大会に出ては信仰の決心をし、洗礼を受けてもそれは変わりませんでした。若き日の私は「救われるってなんだろう?」毎日、毎日そう考えていました。クリスチャンホームに育っただけに、逆に悩んだのです。判っているのに判らない。
 ついに私は兄の教会を去り、別の教会に出席するようになりました。そしてある夏のバイブルキャンプに行きました。ある晩、真鶴岬の先端の岩の上で「神様、私に救いを与えてください」と叫んでいました。しかし、何の答えもありませんでした。それからしばらくして、会社の寮の部屋で何気なく信仰書を読んでいたとき(その名前も覚えていません)
ある言葉に目が留まりました。そこには「キリストがやってしまった救い」と書いてあったのです。「やってしまった」? 何でだろう。何で「やってしまった」と過去完了形で書いてあるのだろう・・・・・?
 その時、はっと目が開かれたのです。そうか、もう終わっていたんだ。イエス様は私のために十字架にお掛りになり、私の罪の全ての身代わりなったのだ。2000年前のゴルゴタの上で私の救いは完成していたのだ。私はただそれを感謝して受け取るだけなのだ。
 その日から、私の救いは失われることはありません。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。ローマ8:33〜35

*クリスチャンのご両親に申し上げます。あなたのお子さんも私と同じような悩みを持っているかもしれません。どうぞ、そのような心の状態を理解してあげてください。そして、出来れば、このメッセージを読ませてください。