ホームページ・メッセージ050925          小 石  泉

人の基準と神の基準


 今度の選挙ほど面白い選挙はなかったですね。私は今度の選挙で、改めて国会議員というものは面白いものだと思いました。というのは何十年勤めても、落選すればただの人、失業者みたいなものですし、当選すれば何の知識も経験もなくても同じ給料、同じ資格が与えられるのですから。初当選のひよこのような新人を見る古参の議員はあまり愉快ではないだろうなと思います。私は何となくイエス様の次のたとえ話を思い出しました。

天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。マタイ20:2〜16

 ある農園主がぶどうの採り入れのために労働者を集めるお話です。ある者は早朝から、ある者は9時から、ある者は昼の12時から、ある者は午後の5時から働きました。早朝から働いた者は確かに1日1デナリの約束で働きました。1デナリは約1万円ぐらいになるのでしょうか。そして夕暮れにそれぞれに支払いが始まると、5時ごろから働いた者が1デナリをもらったので、それ以外の者たちは、これは、自分たちはもっと貰えると思ったのです。ところが同じ1デナリでした。彼らは農園主に文句を言いました、「この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさるのですか?」・・・・判りますね、私も同じ立場なら同じように文句を言ったことでしょう。農園主は答えました、「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。」ふーむ。それはそうなんだけど・・・・何かなあ。
 まず、この農園主は実に優しい方です。誰も雇ってくれなかった労働者たちにも、養わなければならない家族がいるでしょう。「わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。」「わたしにはわたしの基準がある。」
 私たちの基準と、神の基準はこんなにも違います。人間的に見れば不合理ですが、神の愛の目で見ればそれが合理なのです。あなたは納得できますか?
 神の救いの原則は同じです。

しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。使徒2:21

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。ローマ10:9


 人が救われるのは、その人の功績や、生き様や、人柄ではありません。どんな人間でも心からイエスを主と仰ぎ、その名を呼び求めるなら救われるのです。それは国会議員と同じです。信じた瞬間から、全く平等な資格と報酬を得るのです。

おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。マタイ19:29〜30

 この言葉で誤解していただきたくないのは、何も好き好んでイエス様のために「家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者」になる必要はありません。どうしてもそうしなければならない場合です。他の箇所には、

もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい。 Tテモテ5:8

 とあるのです。そして「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。この「先の者」とは「先頭の者」、「あとの者」とは「最後の者」と言う意味です。
 この世で立派な先生とか、有名な伝道者が神の国で第一の評価を受けるとは限りません。この世の基準と神の世の基準は違うのです。
 最近、ナンバーワンよりオンリーワンと言う歌が歌われ、色々な所で使われる言葉となりました。もともとは槙原ナントカいう歌手が初めに作ったようですが、元々は教会で語られたことのようです。槙原ナントカさんが教会に来たという話を噂で聞きました。
 神の基準は、順番や序列ではなく、一人一人です。

あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。マタイ18:12〜14

 何百人の集会、何千人の聖会。しかし、神様が関心を持っておられるのはあなたです。キリストは教会の頭であり、教会がキリストの花嫁ですが、その一つ一つの部品、細胞もキリストの目には見失われません。そしてあなたがどんなに小さく、無力でも、救われたときから、あなたは完全な天国の住人の資格を持っているのです。たとえ、5時から働いたような人であっても。